続パスカルの葦笛のブログ

FMラジオやテレビやCDのクラシック音楽の放送批評に特化したブログです。

岩本真理と向田邦子

向田邦子(1929-1981)は一度岩本真理(1926-1979)に会っている。1977年岩本真理51才の時であった。そしてインタビューして「雷・小さん・ブラームス・岩本真理」なる文章を残している。


それではからずも、新証言が出たことから。


指揮者の山田一雄は当日東京在住の楽団員がほとんど全員集まったが、聴衆はガラガラで楽団員の数より少なかったと回想している。その理由が戦後70年経って判明したのだ。つまり昭和20年、東京大空襲3月10日の翌日3月11日に日比谷公会堂には張り紙が出されて「休演」ということになった。それで聴衆は帰って行って、ガラガラだった。


ところがその後続々と楽団員が集まって来た。バイオリニストの岩本真理まで現れた。客はいないが、完璧に演奏会は開催される条件が揃った。客はいないが演奏しょうということになった。もう二度とクラシックなど日本で演奏することはあるまい。生きていることすらままならなかった。音楽家たちの決死の覚悟があった。それで急きょ演奏会を開催することになったわけだ。


当時岩本真理は巣鴨に住んでいて、空襲があれば防空壕に入り、日比谷公会堂にたどり着いた。前夜の東京大空襲に遭遇し、防空壕に非難して一夜を明けて、そのままバイオリンケースを抱えて、日比谷に歩いて来たらしい。日比谷公会堂に到着すると、向こうから本日休演の張り紙を見た聴衆が帰って来て、これから演奏しに来た岩本真理に出会った。その聴衆は引き返した。演奏会は休演が決定されたので、休演の張り紙を見て帰った。どうりで客がいないはずだ。


「恥ずかしいわ」と岩本真理は回想する。「だって父のズボンをはいて、ススだらけの顔ですもの」といった。


向田邦子は「最も心に残る演奏は」と聞いた。「大空襲の翌日の日比谷公会堂」と断言した。ここで岩本真理は三曲演奏した。つまり三曲の協奏曲の夕べだった。


それで又演奏会の全体も判明する。英米敵国音楽は禁止だが、ソビエトは中立国で、ストラヴィンスキーはソビエトの作曲家扱いにされ、バレエ組曲『火の鳥』が山田一雄指揮新響で演奏された。まさに皮肉ではないが東京大空襲の大火を経験させられて、火事の音楽を演奏した。これほどリアリティーのある演奏はない。不死鳥が火の海に突っ込んで死んで甦る。全員が火の海を経験した。


                   *


向田邦子は岩本真理に質問する。音楽はどこから生まれるんですか。弦ですか、弓ですか、指ですか、聞く人の心ですか。「まあ、面白い。そんなこと一度も考えたことないわ」素顔の岩本真理は笑い上戸だった。
志ん生の、「あのにらみがたまらない」。
浅香光代に、「いよう、みっちゃん。待ってました」と掛け声を実演してくれた。


背が曲がり、背幅は大人並みだが、まゆみの幅は子供のサイズしかない。手は強く大きいが、痛ましい短く切った爪。朝はミルク・コーヒー一杯。演奏会が終わるまで固形物は口にしない。厳しい禁欲生活の岩本真理だった。


別れ際に、楽器以外で好きな音をうかがうと『雷』と答えた。いざぎよいから。