続パスカルの葦笛のブログ

FMラジオやテレビやCDのクラシック音楽の放送批評に特化したブログです。

清瀬保二(1900-1981)と木山捷平(1900-1968)

作曲家清瀬保二の代表作歌曲集『メクラとチンバ』がウィキペディアから追放処分されているのは残念でならない。不穏当な表現が災いした処分である。丸で評価に値しない作品に等しい処分である。こんなことが許されていいのかなあ。


というわけで無きに等しいわけだ。それなら人はどの術を使ってこの傑作に行き付くのか。この点で文学はまだ表現の自由があり、作者の木山捷平の項目を引くと、『メクラとチンバ』に出会える。


そうなのだ。昭和4年(1931)、作家・詩人の木山捷平の第二詩集で自費出版の『メクラとチンバ』が出版された。6月新宿白十字で出版記念会が開かれ、36人が出席した。その中に清瀬保二がいたか。一年後の昭和5年4月、日本青年館で発表会があり、木山捷平は出席している。自費出版だから本屋で買ったわけではなく、木山捷平から清瀬保二は献呈されたのだろう。そこで清瀬は一年弱で作曲し発表したのだ。


ここに『柳兼子と門下生による清瀬保二歌曲選集』というLPがある。


その中に清瀬保二『メクラとチンバ』から、「お咲」(1930)が入っている。今唯一清瀬保二の『メクラとチンバ』が聞けるものではなかろうか。
 ところで、こうなると柳兼子に言及しなければならない。国立音大で日本歌曲を教えていたらしいが、清瀬保二の『メクラとチンバ』も教えていたことになる。早くから正当に清瀬保二の『メクラとチンバ』を評価していたということなのだろう。


柳兼子といえば民芸の柳宗悦の妻だが、柳宗悦の晩年の病魔を看病したわけである。余りの痛さに、柳兼子は「あなたのお得意の南無阿弥陀仏を唱えてみたら」と言ったそうである。「あんなもの何もならない」と柳宗悦は答えたという。いはや壮絶な夫婦であった。言う妻と答える夫。どちらも天才肌なのだ。


凄いといえば木山捷平も凄かった。代表作に『茶ノ木・去年今年』がある。その中に短編「釘」がある。満州時代の友人の酒匂という画家が胃がんで死んだ。火葬に出席したのだが、正介(木山捷平)は火葬場の従業員と顔を合わせた。その瞬間嫌な直感が走った。


正介は従業員の顔を見た。年齢は四十五、六歳ぐらいの瘦男であったが・・・陰気な顔だった。・・・次の瞬間、従業員は・・・正介の顔をちらりと疑視した。ちらりとではあるが、眼の色が鋭かった。明らかに敵を意識しているかのような眼付だった。思わず正介が眼をそらすと、従業員も眼をそらしたが、しばらく経つともう一度、前よりももっと鋭い眼付で正介を疑視した。


火葬場での身内と従業員の出会いの一瞬の猜疑心を扱った名作だ。今は無いが従業員の役得という風習があり、焼き残った金歯を目当てにした身内の思惑がある。「俺が盗んだと疑ったな」という従業員の視線がある。木山捷平という私小説家はそこまで書く小説家だったのだ。清瀬保二・木山捷平・柳宗悦・柳兼子、只者ではない天才なのだ。