続パスカルの葦笛のブログ

FMラジオやテレビやCDのクラシック音楽の放送批評に特化したブログです。

ナチスの退廃芸術とゲルハルト・ヒッシュ

ワイマール共和国の混乱を受けて、ナチスは退廃芸術の粛清に向かいました。理想国家の立て直しがもっかの目標で、その際ハイデガーは大学は総統への絶対奉仕以外にありえないと演説をしました。


この頃ゲルハルト・ヒッシュも音楽奉仕を行い、ナチス党歌『鉤十字の歌』や『ハーゲンクロイツの歌』を吹き込み、新生国家の再建に夢を託した。いわばナチス賛美が国民の義務とされました。いわばヒッシュは歓迎されるべき芸術家であった。


バイロイト音楽祭ではトスカニーニが『タンホイザー』の指揮に登場し、ウォルフラム役にヒッシュを指名しました。トスカニーニもムッソリーニの党から国会議員になろうとしていました。共産主義かファシズムかという選択では、ファシズムの方が許容範囲が広いと考えられていた。


それでもナチスの倫理コードがあり、体制に歓迎すべき音楽家のヒッシュですら、時に表現の自由に限界・制限が設けられて、自由に表現することが出来なかった。退廃芸術と呼ばれたユダヤ人の忌避のみならず、容認された芸術家のものでも内容に寄っては忌避された。その一つがシューベルトの歌曲集『冬の旅』の各々の断片であった。ナチスのコードに引っ掛かり、演奏して残らない演奏は許されたが、録音は残り影響するので、許可が出なかった。


多分当時ヒッシュとも交渉があったレコード・プロデューサーのレッグが、これを聞きつけて、録音に制限を喰らった『冬の旅』の完全版をロンドンで録音すればいいと提案した。1933年にロンドンで録音したのが『冬の旅』全曲盤であった。完全な自由が保障されれば全て良しとなるわけだが、あざといレッグは「これでレコードは爆発的に売れる」と算段した。


ところが言論弾圧のあるナチス政権下でナチスに歓迎される音楽家をしてもなお制限を喰らった中で録音したドイツ盤『冬の旅』の方が味わいが深かった。言論の自由があれば良いわけではなく、制限された自由の中で如何に制限を潜り行けて表現する自由の方が味わい深いということになった。そこが芸術の玄妙な所だ。ナチス親派のヒッシュがナチスの弾圧を喰らってもなお言いたかったのは何だったのか。ここにゲルハルト・ヒッシュのナチス御用ではなかった音楽家の真価があった。ナチス御用なら全面的に盲従するはずである。心からナチスに共感するところがあった者だが、それでも承服できないものがあった。


「おやすみ」の第二句省略の処分には納得がゆかなかった。ナチス当局はこの箇所に国内の反ナチ闘争運動の貫徹を読み取ったらしい。


冬はナチス政権の統治するドイツ、冬の旅人は反体制運動家である。闇の夜の中の道をナチスの弾圧にもめげず反ナチの闘争家は活動をやり続ける。事実ヒットラー暗殺事件は続くのであった。冬に旅をしてもらっては困るのである。まあヒッシュはそこまでは考えていまいが、詩句はそうとう取れるのである。


歌われるヒッシュよりの歌われないヒッシュの歌声がより響くのである。