続パスカルの葦笛のブログ

FMラジオやテレビやCDのクラシック音楽の放送批評に特化したブログです。

サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』と「完全なる問題作」(NHK)


その作品は善か悪か。人々の議論を巻き起こす問題作に迫るドキュメンタリー。「キャッチャー・イン・ザ・ライ」。世界的ベストセラーは何故全米で禁書処分を受けたのか?(NHK)


暴力的な描写や不道徳な表現、ジョン・レノン殺害の犯人やレーガン大統領暗殺未遂の犯人が愛読していた『ライ麦畑でつかまえて』は問題作であった。ドロップアウトの『聖書』なのか殺人者の『聖書』なのか。


ドストエフスキーの『罪と罰』以来サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』のテーマは、読書界の問題作となり続けた。人間を殺したい、人間を殺しても許されるという思想は、絶えず読書界をにぎわせてきた議論である。


大工がサリンジャーの家の修繕に来た。着ていたシャツを脱いでたくましい肉体を出して大工作業を続けた若者の肉体を見て、サリンジャーは涙ぐんだ。「政府は何時もこんな無垢な若者を戦場に送り続けるのだ」。


そんな若者がライ麦畑に迷い込んで、ライ麦畑の向こうには断崖絶壁があるのに、それに気づかないで走ると、断崖絶壁から転げ落ちる。転落した若者を断崖で待ち受けてキャッチして救う人になりた、とサリンジャーは言う。


政府は国民をだまして国民を戦場に送るだけなのだ。そんな政府を信じるな、と言いたい。この社会からドロップアウトするがいい。国民の側からすれば善、政府の側からすれば悪だった。サリンジャーはそんな扇動者に見えた。


学校でたまたま勉強が出来た優秀な若者が、それだけのことで無邪気に学歴社会というライ麦畑を走っていると、その先に断崖絶壁あり転落するのだが、作者サリンジャーはそんな若者にライ麦畑に(この社会の先に)断崖絶壁があり、走るウサギは皆転落死するのだと本に書いたのだった。


学校の教師は学校教育を誹謗するとんでもない小説家だと怒り、サリンジャーの本を禁止処分した。若者に悪い影響を与える有害図書に指定した。


さて、今回NHKのテレビを見て気がついたことがあった。主人公が家出する時、妹に告白すると、妹も同意した。ここで終わっていた。競争社会から脱落した兄と、勝ち組負け組未定の妹がいて、妹は競争社会への参加を拒否するのだった。


実はサリンジャーはこれが結論ではなかったのだ。


家出した兄妹は遊園地に寄り、回るメリーゴーランドに妹が乗りたいと言い出す。これは非常にシンボリックだ。歴史は発展進歩し、必ず今日より明日は良い社会だ。ところがメリーゴーランドは回転するだけで同じ場所の回転である。社会や世界や歴史は右肩上がりではなく、同じ場所を回るだけなのだ。


人間を進歩発展に駆り立てる衝動こそが、人間を最悪にしている。ここ2・300年の歴史を駆り立てた進歩史観こそ間違いだった。


ここで主人公ホールデンに奇蹟が起こる。家出する兄妹が、無駄この上もない妹のリクエストに応えて遊園地の遊びに同意する。「これからは良い兄になろう」とホールデンの心に湧きおこった。これで家出が中止になった。世界との対立が終わった。ホールデンは現実の世界との違和感は依然と続くのだろうが、対立し克服するのではなく、矛盾した世界との和解となった。


薄っぺらくなるが、『こころの時代』の最後の出演となった渡辺京二(1930-2022)さんの阿弥陀仏との出会いを頂きたい。矛盾したこの世が調和する瞬間があり、それが存在するだけで是としようではないかという考え方だ。それだけで人間は安心立命を得る。この世の巨悪も愚善も一様に夜睡眠に入り夜明けと共に又弱肉強食の闘争の世界が開始するが、朝日に光る世界は未だ闘争の準備段階で静止している。善悪、弱肉強食も開始していない。その瞬間が阿弥陀仏だと渡辺京二さんは言う。


恐ろしくサリンジャーは仏教的になっている。だからアメリカ人はそれが読めないのだ。スコセッシーの『タクシードライバー』は善良なタクシードライバーがいかに狂気に駆り立てられゆく話だ。小悪を出さないと正気が維持出来ないという話だ。本意ではないがホールデンは「これからは良い兄になろう」という修業を積み重ねるうちに、問題は解決されるのだろう。


サリンジャーの息子が出演していて、父は町の付き合いに小まめに出て変な人(小説家)ではなかったと回想している。作品至上主義で小説家はうまい小説を書けばいいという考えがある。善良な市民を演じて、かろうじて正気を維持していたのだ。型が大切という点では東洋的である。