続パスカルの葦笛のブログ

FMラジオやテレビやCDのクラシック音楽の放送批評に特化したブログです。

サリンジャーとボブ・ディラン「私はこの世から忘れられ」

「私はこの世から忘れられ」とは、グスタフ・マーラーの歌曲だが、カルロス・クライバーの伝記の副題になっている。この人もマスコミの寵児にして「私はこの世に忘れられて」派の隠遁生活を好んだ。(ちなみに夫人の故郷である東欧の小国に住居して、スロベニアは桃源郷のような純朴で美しい土地らしい。冷蔵庫の食品が空になったら指揮をするんだ、にくいセリフだよ。)


人には厭世主義を好むきらいがあって、例えば村上春樹は良くマスコミを使って売名行為をしているかと思うと、正反対にマスコミを毛嫌いし絶縁生活している。ああやって自分を守っている。一時期の遠藤周作がそうで、コーヒーなどのテレビ・コマーシャルにでるかと思えばそうでもない。そんなに器用に使い分け出来るかねと平野謙が皮肉っていた。世間通が文学の純粋性を蝕むのを恐れるわけである。


さて、ボブ・ディランは流行歌手として華々しく活動しているかと思うと、ある時期から隠遁生活を始めてほとんどマスコミから消えた。それ以来小規模のコンサート活動に入り、今日に至っている。伝聞では故郷のユダヤ移民部落で田園生活しているらしい。そこからコンサート・ツアーに出掛けるのだが、彼の田園生活の生活ぶりを報道したものも絶無なのである。ちょっと好奇心で覗き見したくもある。だが完全遮断されている。


他方、サリンジャーも田舎暮らしを好み、マスコミを避けて生活していた。とこが、である。マスコミ忌避がマスコミの格好の餌食になった。マスコミの習性として隠せば暴露したいじゃないですか。嫌がるサリンジャーを何処までも追いかけて、サリンジャーが嫌がる姿の写真を撮って喜んだ。それでおおいに雑誌が売れる。サリンジャーは毎度嫌がる顔をするから、マスコミはサリンジャーを盗撮し続けた。すっかり世界的文豪がマスコミのオモチャにされた。


あれだけサリンジャーをオモチャにしながら、ボブ・ディランをオモチャにしないのは何んなんですかね。


『ボブ・ディラン全詩集』がありますが、ノーベル文学賞の対象になったが、今日のボブ・ディランはあの詩全てを全否定している。昔のボブ・ディランは間違っていた、と。今日のボブ・ディランは過去の人気のあった歌を、原曲のよすがもない形に変形して歌っている。つまり歌でも自己否定をしている。原曲を編曲して歌うと原曲ではないようになるから、今の自分を偽って昔の思想を支持しているわけでもない。共産党員が転向宣言して右翼に変更するのはどうなんだという転向論があるが、節操を曲げないないという従来の転向論の盲点を突いている。『ボブ・ディラン全詩集』よりも凄い思想を提示している。ボブ・ディランの転向論に注目すべし。


ボブ・ディランに熱狂した世代がボブ・ディランの歌を歌うのはいい。懐かしのメロディで歌うっている。ボブ・ディラン本人がボブ・ディランの歌を今歌うのは人を騙すことになるから、歌えないのだ。


歴史的使命感で社会を変革する詩を書いたが、社会は変わらなかった。世界中の農民は一年を暦にして生活している。それで何万年も同じ繰り返しの生活してきた。進歩発展ではなく保守が基本なのだ。


保守的なユダヤ人は家族の相互扶助で生きてきた。そこに復帰したボブ・ディランは社会は変革しなくて良い、伝統の継続を願っている。だから若い頃の思想を憎むようになり、今後続く著作権の利益を生む全詩集を売却して、若気の至りとして清算したのだろう。若きボブ・ディランは老いたボブ・ディランには必要ない人であった。他人と言ってもいいだろう。


ちなみに『アナザーストーリー、ボブ・ディラン』で文学教授がノーベル文学賞推薦文を書いたが、アカデミー委員会の授賞理由が推薦文そのままなのに驚かされた。全然内容を理解していないで授与している証拠だ。ノーベル文学賞はお粗末過ぎるのではないのか。もっとも日本の有名作家の名前の冠り文学賞は文壇の出来レースで付与されているが、たいして変わりないじゃないか。