続パスカルの葦笛のブログ

FMラジオやテレビやCDのクラシック音楽の放送批評に特化したブログです。

作家以前の西村賢太

作家以前の中上健次は羽田空港の公務員をしていた。明大を中退して浅草の芸人になった北野武は、アルバイト人夫で羽田空港に働きに行って、作家以前の中上健次と出会った。北野武は口をつむんでいるが、察するに威高々な振る舞いであったらしい。公務員と人足稼業では対等でないというわけだ。


中卒の西村寛太は背広とアタッシュケースを持ち歩いて、世間から軽く見られないように警戒した。中学の同級生が新聞に投稿して、その頃から小説家になりたい夢を公開していたらしい。とすると「西村さんは、十四,五歳で渡辺啓助の元に出入りしていたくらい、筋金入りの探偵小説好きだ」(亀鳴屋勝井隆則)という回想も有りだ。渡辺啓助はマイナーなミステリー作家であった。ジャーナリズムを賑わす大作家より、手に取れるようなマイナー作家が本質的に好きで、突然訪問して来たフアンに大感激で対応したらしい。中学2,3年生である。マイナー作家藤沢清造や田中英光はまだメジャーですらあり、魚屋さんの扱ってくれる魚だ。渡辺啓助くらいになると深海魚で、魚屋さんでは売ってない魚だ。深海魚程度なら自分にも成れる、感があったのだろう。低い望みが、なお一層リアルである。それでもプロの小説家になりたい。マイナーのさらにマイナーが自分に相応しい。なんて意地らしい願望か。人間は萎縮すると大志も野望も持てなくなる。イギリスの植民地政策は弾圧して抵抗できないようにした。


大坪砂夫、朝山蜻一、大河内常平、倉田啓明。そういう世界を逍遥した。皆目分からない。


ここに転機をもたらしたのが、土屋隆夫の『泥の文学碑』で、師太宰治の墓前で自殺した田中英光のことが取り上げられていて、作家田中英光の存在を知ることになった。これでミステリーから卒業して、純文学にのめり込むことになった。西村賢太22,3歳の頃で、1989年頃であった。神田の朝日書林が目録販売していて、田中英光関連の資料が掲載されるとよく買いに来ていた。この収集資料の結果が『田中英光私研究』(8冊、1994-1996年刊)となった。限定300部の私家版であったが、分布方法も知らなかったので、はじめて朝日書林の店主と口を交わすことになり、配布先を紹介された。


この中に田中英光と早稲田高等学院、大学の同級生の西広元信がいた。単なる発表雑誌の再録とおもっていたが、西村賢太が直接西広元信にインタビューしたものであることが判明した。空手の世界では有名人なのだが、一部では『資本論の誤訳』でも有名人であった。当時経済学者平田清明がアソシェーション論で一世を風靡して京大教授に招聘されるほどだったが、『資本論の誤訳』でこれを論破したのである。空手家がマルクス研究40年の学者を論破したということで評判になった。この人は対馬忠行と親しかったことでも驚かさせた。


さてこの店で保昌正夫という国文学者を紹介され、書誌学の方に移行するのかと思われたが、あっさり拒否されて近代文学(田中英光)研究家の道が閉ざされてしまった。
「なけなしの金で少しずつ資料を集めて、独学でやっと自分なりの希望、光を見出した。十分頑張ってやっと実績をつくつたと思ったんだろうけど、在野だから、研究者たちは認めてくれない。彼はそれがすごくショックだったんじゃないかと思います。あのまま英光をやってたらどうなったかわからない。」(朝日書林荒川義雄)


しかし保昌正夫は捨てる神だったが又拾う神でもあった。
「『田中英光私研究』に自身の小説を載せてるじゃないですか。保昌正夫さんという横光利一研究家の方が、その小説をすごく褒めたんです。・・・同人の『煉瓦』にも僕が紹介したんです。」(同)


この小説が、『野狐忌』だった。内容は、作家坂本英光(田中英光)に傾倒する北町貫吉(西村賢太)が坂本英光の墓参をする。墓前で対話をし続けると、「作家は残した作品だけがすべてだ」とか「俺に認められたかったら、何か仕事を成すまでは来るな」という幻聴を聞くのだった。ここから西村は小説を書き始めたらしい。一種の芸道精進譚で、名人になる辛苦が語られる。


これが又転機になった。店の客でプロの批評家が小説が良かったと絶賛してくれた。こうして小説を書くようになり、古本屋の店主が小説の発表の場も紹介してくれた。ここまでが作家以前の西村賢太の道程であった。


さて、素人作家西村賢太の書いた『野狐忌』が、『墓前生活』に類似していることに気づかされるのである。(田中英光が藤沢清造に代わっただけなのだ。)


太宰治の墓・田中英光墓参ー田中英光の墓・西村賢太墓参-藤沢清造の墓・西村賢太墓参


小説の師の墓を弟子が墓参する話。この構造の反復である。原型は太宰・田中である。次に田中・西村になる。三度目が藤沢清造・西村賢太となる。


先生のような立派な小説を書きたいという弟子の願いがある。芸道物は菊池寛の『藤十郎の恋』が最たるものだ。しかし太宰治と田中英光の師弟関係に出会えなかったら、このテーマに出会えなかった。それを安易に適応してみたのが『野狐忌』であった。太宰治と田中英光を田中英光と西村賢太に置き換えてみた。ミステリーのトリックにばかりこだわっていた西村賢太は、初めて文学の問いに答えを求められた。そのことを荒井カオルは西村賢太に聞いてみた。


「アライさんは小説書かないんですか。書いたらいいですよ」(荒井カオル「幻の小説『北町貫吉』物語」)


若い作家に西村賢太はそう答えた。習作にも値しない駄文と謙遜するが、何故保昌正夫は絶賛したのか。上手下手は他人言。実作するしかない。最終的に太宰も田中も文学の問いに敗北したわけだが、敗北しなかった人が藤沢清造であった。下手な小説を書いて是とした。自分はこれに師事する他ないと思った。(従来は田中英光の息子と不和になったのが原因と言われたが、別に研究者の学界から疎外された理由があるらしい。短大の万年講師として生きていた西村賢太の可能性もある。運良ければ今短大教授か。)


今は誰も読まない三流小説家の墓を参拝する所にうらぶれたペーソスが流れる。東京から輪島まで毎月通勤する行動の喜劇性がある。哀れと可笑しさが流れている。


人間のやっていることは徒労かもしれないが、すべて身になり血になっているという思想がある。西村賢太はこの喜劇を真面目に演じ続けることで、思想を身にしたのである。西村は朝日書林店主に紹介されて、同人誌『煉瓦』に『野狐忌』を改作増補して『墓前生活』にして発表する。2003年であった。(安易といえば安易この上なかった。田中英光を藤沢清造に差し替えただけなのだ。三鷹の田中英光の墓を輪島の藤沢清造の墓にして、可笑し味は倍増した。完璧申し分なしー坪内祐三。)ここに男女の痴情を加味して面白可笑しく読ませたのが『どうで死ぬ身の一踊り』であった。2005年であった。評者には芥川賞受賞作より良いという評価がある。


しかし2010年芥川賞受賞作『苦役列車』まで5年待たなければならなかった。2009年が一番辛い時期だったと西村は言う。大半の編集者は離反し、思うような発表の場が失われた。有望視された若手作家はこうして落伍してゆくのだが、その一人かも知れなかった。受賞で反転し、余命十余年、人気作家で売れて売り尽くそうと思ったに違いない。悲哀は十分真っ平御免。