続パスカルの葦笛のブログ

FMラジオやテレビやCDのクラシック音楽の放送批評に特化したブログです。

直木賞窪美澄『夜に星を放つ』と妻子に捨てられた男の憂欝

直木賞窪美澄『夜に星を放つ』の四作目は、「湿りの海」である。ちなみに「湿りの海」とは、トールベロの『湿りの海』という月の裏側の天体をリアルに描いた絵画で、有名だそうである。


冒頭に、夫を捨てて妻子がアメリカに逃げてしまって、未練があって妻子をアメリカまで迎えに行く夢を見たという文章が書かれる。とても遠い所なので妻子が死んだ黄泉の国を訪問するようなものだと夫は思う。(これが伏線になっている。)


次に作者の窪美澄は、オルフェウスの神話を紹介する。死んだ妻に会いたくて黄泉の国に行き取り戻すが、神は黄泉の国にいる間は決して妻を見るなと約束させるが、今一歩で地上に出る所で、妻を振り返ると死体なので驚き、妻を捨てて地上に戻って来る。


夫の沢渡は中堅医療品メーカーの営業サラリーマンである。アメリカに逃げた妻子とは今でもパソコンで連絡を取っている。マンションの隣に船場という母子が引っ越して来て、挨拶をされて知り合う。これを機会に急速に親しく交際する。


週末は時間を持て余していた沢渡は、船場さんと交際をはじめて充実した生活を始める。親しくなると個人的な話題にものめりこみ、親身になって相談にのる。この母子との再婚まで考えるようになる。


飲み会で知り合った宮田さんから携帯が入る。「晴れた日曜日何しているの」と言われた。この女性は「結婚指輪の跡があるうちはやめたほうがいい」とも言った女だった。誘惑しながら、誘惑すると拒否する高度なテクニックを持つ女だった。その時船場さん母子が近くで遊んでいた。ボール投げ遊びをしている。海を見たことがない子に沢渡はドライブで海を見せることにした。


親しくなった沢渡は船場の部屋にも入れてもらう。すると妻が好きだったトールベロの『湿りの海』が飾られていた。娘の沙帆ちゃんも現れ、楽しい時をすごした。沙帆ちゃんと遊んだ時、太腿のアザを見てしまう。沢渡が会社から帰ると、船場の部屋の前で数人が集まっている。「何かありました」「部屋から泣き声がするんです。何度も。児童虐待があるらしい」沢渡はすぐ沙帆ちゃんのアザを思い出した。


まもなく船場さんは突然に引っ越した。帰宅する時、隣のハウスクリーニングの現場に出会った。近所の人が見物している。「旦那という人が来て三人で又暮らすらしいわ」といった。船場さんとの再婚を夢みていた甘美さが思い出された。家に入るとスマホに娘の連絡が入る。


壁に掛かった『湿りの海』が目に入った。(伏線回収の落ち)船場さん母子も月に行っちゃった、と呟いた。そうかな、「湿りの海」に僕だけがとり残されたのじゃないかな、と呟いた。妻子はアメリカ人の浮気相手にさらわれる。船場さん妻子は夫のもとに帰っていった。自分だけが現実の泥沼(湿りの海)にとり残されたのじゃないか。自分の方が死の国の住民ではないかと思ってしまう。


死者の国・黄泉の国は地獄で辛いように思うが、死者はそこで安息の日々を送り、地上の過酷な生活なんて望んでいないのではないのか。オルフェオは地上に妻を戻そうとしたが、そもそもそう考えるのが傲慢であったのだ。