続パスカルの葦笛のブログ

FMラジオやテレビやCDのクラシック音楽の放送批評に特化したブログです。

東海林太郎が大中寅二の『椰子の実』世界初演、1936年7月9日

1936年(昭和11年)7月9日は奇跡の一日であった。その発端は前日にあった。昼、東京駅の通路を大中寅二は歩いていると、向こうからNHKの洋楽の課長が歩いて来る。かねてより知り合いで、挨拶をして別れた。
 その夜、
「大中さん、電話ですよ」という声がした。その頃は固定電話は金持ちのステータスで、自慢でもあった。みんな呼び出し電話であった。すいませんと言って電話に出ると、昼間東京駅で会った男だった。当てにしていた作曲家からは皆断られた。万策尽きてようやく大中寅二の顔が浮かんだ。「あの人も作曲するんだったな」と大中寅二を思い出した。「明日の番組に穴が空いたのだ。新作の歌曲一曲できますか」という。「いいですよ」「じゃあ明日8時東京駅の例の所で手渡してよ」という。これが名作が生まれる切っ掛けであった。まったく期待されていなかった。どちらも穴埋め作業だった。


それから書斎で、歌曲になる詩を探し求めた。まだ作曲されていなくて、歌に成る詩を探し出すのに手間がかかった。もう12時を過ぎていた。柳田国男が伊良湖半島を旅行していると海岸に南洋の椰子の実が打ち寄せていた。それを島崎藤村に話すと詩にしたのである。これだと思うと、30分もかからないで作曲した。


約束の8時に東京駅の出会った所で二人は会った。大中寅二の持参した封筒を渡されると、中を見て五線譜に書き込まれているものを見て安心した。課長さんは当時NHKがあった内幸町に出勤するらしい。それから出勤すると、電話で出演する歌手に出演交渉を始めた。「新作を初見で歌う」といわれると、誰も引き受けなかった。それを引き受けたのが東海林太郎だった。『国民歌謡』と呼ばれた歌番組であった。昭和11年7月9日、NHKラジオの『国民歌謡』という歌番組で、大中寅二の『椰子の実』が東海林太郎によって歌われた。世界初演であった。


なかなか評判が良かった。そういう電話があった。番組担当の課長さんは、番組が穴が空かなくて一安心であった。10日、11日と経過すると手紙やハガキの便りが届いた。それが半端な数ではなかった。大反響といってもよい。もう一度聞きたいというリクエストだった。番組始まって以来の反響で、局内で相談すると再演するかということになった。この頃の放送は全部生放送で、東海林太郎に連絡すると20日までは空いているという。それでは13日から20日まで一週間毎日内幸町のNHK会館に通って生出演してくれということになった。21日から東海林太郎は仕事で出演できなくなった。それで数人の歌手が交代で『椰子の実』を生出演で歌ったという記録が残っている。


11月には楽譜が出版され、12月には、世界初演した東海林太郎の歌で大中寅二の『椰子の実』がレコード発売された。とはいえレコードは思ったほどは売れなかったようだ。これがクラシック音楽と流行歌の違いであった。クラシック音楽では生活出来ないことが思い知らされた。それから東海林太郎は流行歌に身を入れる覚悟が出来た。シューベルトの『冬の旅』も国定忠治も歌う中味に違いはなし、貧乏人の財布からレコードを買わせる金を捻り出させる尊さは比べ物にならない。そう覚悟して低俗的な歌謡曲に入魂する意気込みが湧いたのだった。


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さて、作曲者の大中寅二だが、なかなか逸話の多い人物でもあった。プロテスタントの名門教会の霊南坂教会の専属オルガニストでもあった。山口百恵・三浦友和夫妻の結婚式の背景になった霊南坂教会であるが、あすこに日本一のパイプ・オルガンが設置されるはずであったが、大中寅二の一言でパーになったという。建物は石造りで今も豪壮な建築物である。ブリジストンの石橋一族の一員に属する夫人の遺言で遺産が教会に寄付された。伴牧師はこの際日本一の教会と日本一のパオプ・オルガンを設置する決心をした。ついては大中寅二にドイツの教会を巡って一番良いと思われるパイプ・オルガンを選定して注文してくるという特命をうけてドイツ旅行に出た。


それは本場ドイツのバッハ音楽に接する貴重な旅でもあった。まずバッハその人にショックを受けた。昔小学校の音楽教室に飾られた白黒のバッハの肖像に慣れた大中寅二は、金髪・青い目・ピンク色の皮膚のバッハの肖像にショックを受けた。「この人はバッハではない」という直感があった。本場ドイツで演奏されるバッハの作品にも意外にエロテックなものを感じてしまった。最大のショックはパイプ・オルガンの音色であった。バッハ音楽の神髄はリード・オルガンで演奏される、という確信であった。


リード・オルガンは今日では19世紀末にパイプ・オルガンの代用品として発明された底の浅い楽器であるということが証明されている。しかし貧しい環境で育った日本のプロテスタントの大中寅二の体験には、「清く貧しく美しく」という美学があった。それがリード・オルガンの音色にマッチしていたのである。「清く貧しいなるが故に美しい」という美学は大中寅二の血肉になってしまった。


そういうことでパイプ・オルガンを拒否してリード・オルガンで弾くバッハ連続演奏会が霊南坂教会の売り物になった。もちろん大中寅二がオルガニストである。小さな教会でどこにでもある安手のリード・オルガンで演奏されるバッハ演奏こそ、本場ドイツを凌駕したものがある。