続パスカルの葦笛のブログ

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モントウー指揮ロンドン交響楽団のブラームス2番

往年の名盤である。87歳の高齢だが細部に至るまできめ細やかな指示が行き届いていて、一点の揺るがしのない演奏が実に明解に聞こえるのが驚異でもある。ステレオ録音の最初期だが、不足のない録音である。


いささか通常でないのは、余人のしない第一楽章の反復を実行したことである。1962年の録音。1980年になるとジュリーニが再度第一楽章の反復を実行したが、この時のインパクトが強かった。しかし遂に反復は習慣にはならなかった。


ワインガルトナーがブラームスの面前で演奏して賞賛されたことが、イギリスでは神格化されて今でも権威になっている。彼の時代ブラームスは現代音楽で、勿論伝統的解釈など存在しなかった。彼の演奏を聞いて見ると時々違和感が生じるのだが、楽譜を音符に起こしただけのものだからである。アンゲンブレシュトのドビュッシー演奏はドビュッシーのニュアンスが分かっていたといわれていたという。(音楽は楽譜だけでは再現出来ない。)伝統がなかった時代にワインガルトナーやメンゲルベルクのブラームスは演奏は楽譜をその通りに演奏するしかなかったので、その録音は淡白な演奏にならざるをえなかった。


じつはピエール・モントウーも同じことが言えるわけで、ブラームスの演奏は楽譜しかなくて、楽譜を音符に起こすしかなかった。それでも1920年代のドイツでようやくブラームス演奏の伝統が定着して、ブラームスとはどうゆうものかということが確立される。この点がワインガルトナーとメンゲルベルクとは違うわけである。本場ドイツのブラームス演奏の規範を知ることになる。その影響を受けている。第二楽章の125小節、192小節のリタルランドは間違いなく伝統の影響である。皆がそうしている合意形成の影響である。
125小節のオーボエだが、楽譜にもrit.が印刷されている。ドイツの指揮者がこの箇所で次第にテンポを落とす指揮者が多くなり伝統になってきた。合意形成だろう。


面白いのは第四楽章の122小節のテンパニの加筆である。伝統的には一打が加筆される。
もちろんモントウーもテンパニの一打を加筆している。ブラームス(1877-1897)の生前は楽譜にない一打の加筆が演奏されることはなかったが、没後では指揮者の自由だし、その方が効果的ということで、没後1897年以降ドイツ各地で指揮者によって実行されたのだろう。モントウー(1875-1964)が新しい伝統を知ったのが何時なのかわ不明だが、1920年代というのは妥当性があるのだろう。録音が1962年である。わずか40年そこそこの時代なのだ。ジャン・フルネなどもやっていた。こういうのはドイツ人よりも敏感なのかも知れない。