続パスカルの葦笛のブログ

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太宰治『千代女』と女流作家豊田正子の予言


太宰治にこれほどポレミック(論争的)な小説はない。素材は「綴方教室」で一世を風靡した豊田正子がモデルということは確定している。投稿雑誌『青い鳥』は鈴木三重吉の『赤い鳥』がモデルも確定している。なにを今更作文の豊田正子をモデル小説に書いたのか、疑われる。本音は第一回芥川賞の選考会だ。文壇を疑似文壇たる児童文学界にことよせて、小説家太宰治を認めない既成文壇の不条理さを、描くことにあった。豊田正子は何故小説家として認められないのか。それを描くことで新人作家太宰治の不当な扱いを太宰は糾弾する。


その前に豊田正子は和子として登場するのだが、姓名は不明である。さらに面白いのは綴方教室の天才少女豊田正子は寺田まさ子としても登場する。正子とまさ子で共通するので、モデルと判明する。


柏木の叔父さんは太宰治の師匠井伏鱒二で、盛んに投稿を進めて弟子太宰治を大作家に大成することを願っている。いわば一番悪い人である。小説の叔父さんも彼女を小説家にさせたがっている。太宰を小説家にさせたいという井伏鱒二が、柏木の叔父さんである。そこの「選者の偉い先生」岩見先生は、芥川賞の選考委員だった川端康成である。


あれほど評価してくれた叔父さんは作文の名手豊田正子の才能に見限り、井伏鱒二は太宰治の才能を「途中で投げ出してしまいました。」となる。この二人は艱難辛苦で克服する努力型でなかった。こういう人は人頼み、おねだりタイプだった。川端康成や佐藤春夫に芥川賞をくれと懇願とも脅迫ともとれる手紙を出して、井伏鱒二を困らせる。


どうしたら小説が上手になれるだろうか。きのう私は、岩見先生に、こっそり手紙を出しました。七年前の天才少女をお見捨てなく、と書きました。私は、いまに気が狂うのかも知れません。(千代女)


何卒私に与えて下さい。一点の駆け引きございません。・・・早く早く、私を見殺しにしないで下さい。きっとよい仕事できます。(川端康成宛太宰治手紙)


2人は切実な願いを込めていた。小説家になる生死を岩見先生(川端康成)が握っていたのである。この願いは、豊田正子では岩見先生が、太宰治では川端先生が握っていたのである。そして何より豊田正子では自分を理解してくれる岩見先生であり、太宰は「川端先生なら俺の作品をわかってくれる」と思っていた。良き理解者であった、と心中では思っている。お坊ちゃん育ちの太宰は、他人はおねだりすれば実現してくれると達観していたのだ。事実おねだりは実現されたのである。しかし現実の世は違っていた。


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題名『千代女』だが、女流俳人加賀千代女から取られた。理由は単純に女流作家ということであるらしい。俳句の宗匠から課題を出され、苦労したが見事に句を創作して賞賛された。苦労人千代女ということで、「私は千代女ではないわ」と艱難辛苦の末に俳人の地位を獲得した努力の人でないことを豊田に告白させている。これは太宰治の心境でもあった。井伏鱒二と太宰治の違いかも知れない。井伏鱒二は自分の文章の無駄を削りに削って無駄を無くした。しかし太宰は一気呵成に書き上げと、二度と見たくない推敲したくない人だった。


豊田正子を小説家に育て上げようとしていた叔父さんから努力が足りなくて見捨てられた。太宰治を小説家に育て上げようとしていた井伏鱒二から見捨てられた。豊田も太宰も努力が苦手だった。艱難辛苦が大嫌いであった。下手な小説を上手な小説に仕立て上げる磨き作業が苦手だった。


それなら自分を発見してくれた岩見先生に豊田正子は情に訴えて懇願した手紙を書いた。太宰治は川端先生に芥川賞を下さいと手紙を書いた。リアルな豊田正子がそうだった確証はないわけだが、太宰治は下手な小説に磨きをかけて上手な小説に仕立て上げる努力が嫌いであった。小説を書き上げるまでは努力するが、書き上げた後は見たくもない人だった。自分を豊田に反映させた。豊田は自分は努力の人加賀の千代女じゃないわと言わせた。


太宰は恥も外聞もなく、他人に平気でおねだりすることが出来た人だった。「川端さんにそんな手紙を書く時間があったら、小説を推敲しなさい」(井伏鱒二)。太宰治は反論が出来なかった。恥ずかしい弟子だった。師匠から見限られた。でもきっと綴り方教室の豊田正子も同じではなかったか、と思えた。そういう小説が『千代女』だった。


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豊田正子(1922-2010)は実は生活作文からプロの作家になっていた。太宰治より長生きした。この人もまた栄枯盛衰に飲み込まれた人生だった。戦後入党し、作家江馬修と知り合い事実婚をした。いわば党員作家で、日本では一段低く見なされていたが、自主性のない党の言いなりの作家に甘んじたことが、意外にプロの作家命脈を繋いだ。1964年、中国で文化大革命が始まると江馬修に服従して中国に渡った。夫に勧められるままに文革礼賛の文章を書いた。当時迫害された文豪巴金を救出したという。江馬修は中国で最も知られた日本人作家で、その名声が彼を救った。


帰国し、江馬修と豊田正子の間に齟齬が生じ、江馬が女性を作り事実婚が解消された。その後宝飾店に就職した。作家生命が失われ一生文筆活動は出来ないとおもわれた。そこで女優田村秋子と再会し、交際が始まった。その間はOL生活だった。1986年その交際ぶりをまとめて『花の別れ』を出版すると、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。


1996年脳梗塞を発病し、そのリハビリをまとめて最後の本を出版した。2010年、88歳で逝去した。綴方運動で発掘された綴方作家は皆埋没したが、豊田正子だけはプロの作家になり作家として生涯を終えることが出来た。『千代女』は努力が嫌いで横柄な我が儘な性格だったが、それを押し通して生きた。太宰治はそれを予言しているのだ。豊田正子を通して太宰治は自分を語っているわけだが、似た者同士だったのだろう。


豊田正子を発掘した小学校教師沢田先生(大木顕一郎)は『綴方教室』を出版しベストセラーになったが、一円も渡さなかった。小説は沢田先生をぼろ糞に描いているが、太宰はその噂を知っていたらしい。


豊田の実家は墨田区本所の貧しい職人の家だった。小説は滝野川の中里町で、父は私大の英語教師をしている。叔父さんは私大を中退(井伏鱒二は早大中退)し淀橋の区役所職員である。弟は旧制中学に入学した(エリート)。一中・一高・東大のエリート・コースかも知れない。豊田正子と小説の一番の違いは、豊田正子は小学校を卒業すると女工になったことである。何故太宰治は小説では主人公を東京の高級市民階級の子女として描いたのだろうか。不思議である。


「柏木の叔父さんは、沢田先生なんかと違って、大学まですすんだ人だから、それは、何と言ったって、たのもしいところがあります。」太宰は何で人間侮蔑のようなこの言葉をいわせたのだろうか。当時の教師には大学卒はいなかった。皆師範学校だった。師範学校を卒業すると歪んだ人間になると言われた。無料どころか小遣いまで与えられ、歪んだ先生が作られ、歪んだ人間教育を施していた。青森の金木町の旧家の出身の太宰治は、小学校の教師に不信感を抱いたのであろう。人間の一番下種な部類に属する連中で、綴方教室にいい印象を持たなかった。子供を先生の鋳型で教育する。沢田先生のいう通りにしたらあなた(和子)は私が寺田まさ子(豊田正子)さん以上の天才少女に育てたと暴言される。太宰は豊田正子が小学教師大木顕一郎から離れ女工になったことで、学校教育の呪縛から解放されたことで、後の作家の芽が出たとする。「私は千代女ではありません」と和子に言わせたのだ。