続パスカルの葦笛のブログ

FMラジオやテレビやCDのクラシック音楽の放送批評に特化したブログです。

初期で絶頂期のワルベルクの人生(『年譜』1)

ワルベルクはどんな人から影響を受けたか、どんな先生に教えを受けたかも知らないし、事実決定的な影響はなかったのだろう。平凡に生まれ育ち、その行く末は平凡で終わる運命だったのだろう。こんな凡人が運よく人生の門出で人生の絶頂期を迎えた不思議な体験をしたのだった。


1923年      3月29日、ウエストファレン州ハムに生まれる。親がどんな人か       
           も伝わっていない。
           ドルトムント音楽院で学ぶ。
           ケルン音楽大学で、ヴァイオリン・トランペット・指揮法を学ぶ。
1946年 23歳  指揮活動を始める。


ここで、同年代の指揮者を紹介しよう。ボッセ(1922-)、レーデル(1918-2013)ケーゲル(1920-1990)、ゲルデス(1920-1989)、ドレヴァンツ(1929-2021)、レグナー(1929-2009)、まさに二流だ。どう見てもワルベルクはここの一員だ。


シュタイン(1928-2008)、テンシュテット(1926-1998)、ドホナーニ(1929-)、マズア(1927-2015)といった一流の面々がいないではない。凡人と非凡人はどういう差なのだろう。


1954年 31歳 アウグスブルグ劇場音楽総監督になる。(1954-1955)
1955年 32歳 ブレーメン劇場音楽総監督になる。(1955-1960)この頃
          クナッパーツブッシュは頻繁に指揮しに来る。影響あるか。
1956年 36歳 ニルソンの伴奏をフィルハーモニア管で録音する。
1960年 37歳 ヴィースバーデン・ヘッセン州立劇場の音楽総監督になる。(196  
          0-1974)
          まずまず凡人の人生の門出だった。
          この年から3年連続でザルツブルグ音楽祭に招かれる。
1961年 38歳 5月27日ウィーン国立歌劇場でヴァーグナー『マイスタージンガ    
          ー』を指揮する。


    この時の演奏は最近、ワルベルク指揮ウィーン・フィルでCDで発売された。


この年(1961年)で特筆すべきことは、若きブレンデルの第1回目のベートーベンのピアノ協奏曲全集で、ワルベルクが2番・3番・4番を担当し、オーケストラはウィーン交響楽団。1961-1967年が録音した年で、4番1961年録音という記録が残っている。5番がメータ指揮で、美味しい所を取られた感がある。最初のピアノ協奏曲全集が今も現役盤だというのは偏にブレンデルの偉業なのだが、Voxレコードの常連でメジャーなレコード会社は相手にしてくれなかった。廉価盤の中に無名の名手を探すというのも、レコード・コレクターの無上の喜びでもあった時代があった。


1962年 39歳 ミュンヘン・オペラ祭でリヒアルト・シュトラウスの『無口な女』を
          指揮して絶賛される。
          アルゼンチンのテアトロ・コロンに招かれて、9月8日にモーツアル  
          ト『後宮からの誘拐』、9月22日に『無口な女』を指揮した。


    ワルベルク指揮テアトロ・コロン管弦楽団でCD発売された。


           10月8日アルゼンチンのテアトロ・コロンでリヒアル ト・シュ
           トラウスの『バラの騎士』を指揮する。


  ワルベルク指揮テアトロ・コロン管弦楽団でCD発売される。


この頃のアルゼンチンはある本によると先進国だったそうである。工業国ではないが、農業国で国力も豊かで繁栄していた。生活レベルは高かかった。あり余る財力でオペラハウスを建築し、ヨーロッパのオフの超一流の音楽家を招いて上演していた。アマゾン川の上流に贅沢なオペラハウスを建て、トスカニーニを招いて『トリスタンとイゾルデ』を上演した。ピアニストのホルショフスキーはまだヨーロッパでも上演されてないオペラを初めて見たのはそこだったという。南半球は農業国で繁栄し、ヨーロッパではそれが魅力だった。当時文明堂のカステラ缶詰があって、食べたい時何時でも食べられる最高級食品で、宝石を食べているような値段だが、富裕層には便利な御菓子だった。小説家ボルヘスは食べた記憶があった。テアトロ・コロンという缶詰を開封すると、ヨーロッパの一流の音楽が、出て来るのだった。


名歌手の単なる伴奏指揮者といわれればそれまでだが、4つのオペラ(『後宮からの誘拐』)が今現役盤で発売されているのが凄い。


1960-1963年の三年間は、ワルベルクの絶頂期だったのかも知れない。余りにも早く絶頂期が到来したので、後は凋落期というしかない。一流に飛躍するか、二流に転落するかの、人生の分かれ道があった。一青年にとっては過酷な選択かも知れない。



余談。
第二次岸田内閣の発足で、親中派の林外務大臣が再任されなかった。皆さん驚きました。


   中米戦争決定           ウクライナ・マイダン革命
エマニュエル大使・木原誠二       パイアット大使・ヌーランド


アメリカがウクライナの親ロシア政権を転覆して親アメリカ政権を樹立させた。さらに新政権にロシアを刺激させて、ロシアにウクライナを攻撃させたといわれている。


日本では政界や官界や財界では親中派がはびこって心底中国と戦争する気がない。昔は日本に韓国と仲良くしろと命令していたが、今は韓国に日本と仲良くしろと命令している。喧嘩をしている場合ではない、と。見る見る仲良くなっている。日米韓で対中戦争をする気だ。


で、今度日本国内の親中派の処理に手を付けた。ウクライナのマイダン革命を日本でやる気だ。林大臣の排除だ。パイアット大使とヌーランドがタッグを組んでロシアと戦争する政権を作った。今度はエマニュエル大使と木原がタッグを組んで続投間違いなしの林大臣を排除した。日本は中国と戦争出来る土俵を作った。


アメリカの研究所は、日中戦争が始まる数日前、在日米軍基地のジェット機はグアムに移動して、もぬけの空でアメリカは中国と直接戦争は参加しないと予測している。ウクライナ戦争でアメリカが仕掛けておいて参加しない、というのと同じではないか。