続パスカルの葦笛のブログ

FMラジオやテレビやCDのクラシック音楽の放送批評に特化したブログです。

ブルックナー指揮者ワルベルクの足跡


 ワルベルク指揮デュースブルグ・フィルのブルックナー5番(2004・2・21~22)。
 2004年9月29日に没したワルベルクの音楽的遺言となった。


ワルベルク(1923-2004)は隠れたブルックナー指揮者でもあった。長い生涯の始めから終わりまで一貫してそうだった。後家の一徹という言葉があって、夫を亡くしても再婚しない未亡人は、夫婦仲が良い、フタと器(夫と妻は元来他人)とは別物だが一体と見なせる。他人がどう思うとも、あすこまで好きだったワルベルクはブルックナーが得意といえる。ワルベルクとブルックナーは合わないかも知れないが、合わないブルックナーとそれが好きなワルベルクとは、ここまでくるともう一体である。そういう格言である。


太陽のような豚骨ラーメンが本流で、煮干しの澄んだスープの東京ラーメンの存在は今は忘れられている。月の風情を愛でる、時には月を雲が隠す「おぼろ月夜」まで月を愛でる鑑賞法があった。ラーメンといえば豚骨(マタチッチ)じゃん、と当時若者の代表だった宇野功芳がいた。若者の口には豚骨のパンチが合った。東京ラーメンは邪道になり否定されました。当時N響ではラーメンの豚骨本流説と煮干し本流説の戦いが交わされて、煮干しラーメン本流説が負けました。マタチッチが勝ってワルベルクが負けました。そういう歴史があったのです。


                   *


まず最初は廉価盤レコード・クラブのコンサートホール・レーベルに入れたブルックナーの演奏であった。


(1)ブルックナー交響曲第4番ワルベルク指揮ウィーン国立交響楽団(HJ30030)


録音年月不明。ウィーン国立交響楽団は、ウィーン交響楽団にさにあらず。ワルベルクが首席指揮者を勤めていたウィーン・トーンキュストラ管弦楽団(1964-1975)の別称だそうである。そこで録音は1964-1975年の間ということになる。おそらく定期演奏会のゲネラルプローベの演奏を録音してレコードの音源にしたらしい。これだと製作費は不要で、楽団のそれなりの収入となる段取りである。廉価盤の仕組みである。


(2)ブルックナー交響曲第5番ワルベルク指揮ウィーン国立交響楽団


このレコードジャケットにはウィーン・トーンキュストラ管弦楽団の名称が記されている。
この次にブルックナー交響曲7番が取り上げられるわけだが、コンサートホールでは名盤中の名盤のシューリヒト指揮ハーグ・フィルの演奏があるので、同じ曲が重複するのは当然回避されるわけで、ワルベルクの録音は当初から予定されていなかったらしい。


(3)ブルックナー交響曲第8番ワルベルク指揮ウィーン国立交響楽団


2枚組で余白に『テデウム』が収録されている。如何に優遇されていたかがわかる。されど2枚組は鬼門で、マタチッチも4番を2枚組にしてブルックナー指揮者のデビューに大失敗している。音楽愛好家は本音では演奏が途中で切れるのに何の躊躇もない。


(4)ブルックナー交響曲第9番ワルベルク指揮ウィーン国立交響楽団(HJ30044)


コンサートホールでブルックナーの交響曲を録音した実体はよく分からないのであるが、4番・5番・8番・9番の存在は確認が取られている。これだけでもワルベルクがブルックナー指揮者の面目躍如はあるだろう。日本ではブルックナーはまだ皆目分からない作曲家だった時代だった。ワルベルクが1975年でウィーン・トーンキュストラ管弦楽団の首席指揮者の地位を離れることで、コンサートホールでブルックナーを録音する計画はとん挫することになる。


(5)ブルックナー交響曲第7番ワルベルク指揮エッセン・フィル


1975年に、ワルベルクはエッセン劇場総監督になっている。(1975-1991)同時にエッセン・フィルハーモニー管弦楽団音楽監督に就任している。コンサートホールではシューリヒト盤があるので同曲は録音できないので、やはりシューリヒトを意識していたのではないか。早々エッセン・フィルで7番を録音している。邪推すれば、ワルベルクの7番はコンサートホールはいらなかったが、固執したのでトーンキュストラ管に切られた。新しいオーケストラで7番を録音したのは執念である。
 音楽ブログ『田舎オヤジの日記』さんは、この演奏を公開しているので、今のところ唯一自由に試聴可能なワルベルク指揮のブルックナーの演奏になっている。ご試聴下さい、と言いたい。
 第一楽章、386小節に突入するとワルベルクのテンポの落とし方は秀逸である。
387小節でワルベルクはさらにテンポを落とすのだった。386小節からラレンタンドを始めるのはワルベルクだけだから、独創はある。


 第四楽章、Langsamの2小節の大きなリタルランドはクナ仕込みの大胆な演奏だ。
312小節からトランペットに大きなリタルランドを掛けてテンポを落としているのが、クナッパーツブシュ指揮ケルン放送交響楽団とワルベルク指揮エッセン・フィルの演奏だ。他の指揮者は313小節の区切りの良い所から入るが、この二人は一味違う所を見せている。どちらがブルックナーに相応しいかというと、2019年ウィーン・フィルのハイテインクが二人に軍配を上げて、三人目の同調者になった。


(6)ブルックナー交響曲4番ワルベルク指揮NHK交響楽団(非公開)


ワルベルクがN響でブルックナーを取り上げるのは1988年であった。1966年初来日で、22年後なのだ。そして彼はN響ではあまりブルックナーを取り上げることには熱心ではなかったようだ。反応もいま一であったか。この演奏は聞いた記憶があり、好ましい印象が残っているが、定石通りの解釈で満足し、特筆すべきことが無かったので、メモが残されなかった。当時マタチッチが猛威を振るっていたので、ワルベルクの存在は影が薄くなった。それにしては4番はマタチッチが不得手で、彼を補完する意味では好都合な選択であったといえる。ワルベルクが最初に4番を指揮したのは、マタチッチは4番が鬼門であるのを意識していたからと考えられるのだ。両者にはブルックナーをめぐって闘争心があった。


(7)ブルックナー交響曲8番ワルベルク指揮NHK交響楽団(非公開)


4番の1988年から6年後の1994年に、8番が取り上げられた。ハース版であった。これもいま一の反応か、ブームは引き起こされなかった。マタチッチの圧勝であった。


(8)ブルックナー交響曲9番ワルベルク指揮NHK交響楽団(非公開)


1996年、2年後に9番が取り上げられた。ハース版であった。N響では以後ブルックナーの交響曲は取り上げられることはなかった。N響ではブルックナーはマタチッチという定評が確立され、ワルベルクの出る番がなかった。さすがのワルベルクも悪あがきと悟ったのだろう。太陽があり、月の風情を愛でるのもあり。ワルベルクのブルックナーは月の風情だったのだ。太陽の強烈さに負けた。


(9)ブルックナー交響曲8番ワルベルク指揮デュースブルグ・フィルハーモニー(790596)


1996年5月8・8日ライブ、自主製作盤。デュースブルグ・フィルとは、若杉弘が音楽総監督を勤めていたライン・ドイツ・オペラのオーケストラ部門らしい。ワルベルクはブルックナー指揮者として決してブルックナーの演奏を諦めなかった。しかしドイツでも日本でもその道の権威筋と認めてくれなかった。まだヴァントもヴェンツァーゴもブルックナーを指揮していなかったのに、権威筋になれなかった。


(10)ブルックナー交響曲5番ワルベルク指揮デュースブルグ・フィルハーモニー(220104)


2004年2月21・22日ライブ、自主製作盤。この演奏の後来日し2月28日にワルベルクはN響を指揮したわけである。結構なハード・スケジュールであったわけだ。緊張が緩和されたのか、9月29日に81歳で死去するのである。晩年は熱心にブルックナーに固執したわけでもないが、また疎遠になったわけでもない。生涯ブルックナーの音楽には憑かれていた。5番がワルベルクの音楽的遺言となった。まさに後家の一徹であった。夫と死別しても後再婚しない、夫の名前を汚さない。ブルックナーという名一筋で通した。こうなるとブルックナーとワルベルクは一体ではないか。そういう意味でブルックナー指揮者となった。(演奏は悪くないですよ。)


ヴァントやヴェンツァーゴがある日突然ブルックナーに目覚め、それが熱心なブルックナー・フアンを獲得したというわけにはいかなかった。