続パスカルの葦笛のブログ

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ヤッシャ・ハイフェッツとポンセ『エストレリータ』考

   すでに戦前に発売されていたSP盤『エストレリータ』のレコード。


偏愛の巨匠ヤッシャ・ハイフェッツ(1901-1987)は、世に偏食という偏った食品が好きでそればかり食べる人がいるが、下品と評されても一向に気にしないで愛し続けた音楽があった。偏愛の巨匠だった。


ナチス時代帝国音楽院総裁という要職にあったことでナチス御用と称されて、イスラエル国内では演奏禁止にされたリヒアルト・シュトラウスを堂々と演奏して暴漢に襲われた。しかも彼の作品の中では決して傑作と評価されていない失敗作を敢えて取り上げた所にこの人の真骨頂がある。バイオリニストの同業者が決して演奏しない駄作バイオリン・ソナタを、何故か偏愛するのである。その上今回は偏屈なシオニストに襲われて、殴られたのだった。知られざる名作を普及させたいのではなく、彼の愚作で殴られた。差別されたユダヤ人は断固反対するが、同胞のユダヤ人に断固同調しないのが音楽家ハイフェッツの真骨頂。


完全に忘れられた通俗的二流作曲家コルンゴールドを偏愛し、誰も演奏しないバイオリン協奏曲を演奏し続けた。ウィーンの音楽評論界の大御所の御子息で、甘やかされて育ってニ十世紀に生まれたモーツアルトの再来と呼ばれて、好き勝手に作曲していたコルンゴールドは、ウィーン以外では通用しない人だった。今日では風が変わって再評価に向かっているから、まんざらでもない。ハイフェッツには同業者の誰も演奏しない音楽を偏愛するという変わった趣味嗜好があった。


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そんな一人にメキシコの作曲家ポンセがいた。ハイフェッツのお蔭で有名になったポンセはメキシコ随一の作曲家になりメキシコ音楽院の院長になった。小品歌曲の『エストレリータ』(1912)は、夜空に輝く小さな星を見たポンセが、その時の印象を作詞作曲した。多分1940年にハイフェッツが南米に演奏旅行した時にメキシコでこの曲を耳にしてバイオリンに編曲してアンコール・ピースにして流行にしたと考えられる。その結果ポンセと『エストレリータ』が世界的に知られるようになった。


そこでポンセの『エストレリータ』の原曲の歌曲を聞いてみると、誰れもがこれがハイフェッツの『エストレリータ』かと疑問に思う。それほど印象が薄い。ハイフェッツの編曲あってこその名曲なのだろう。バイアスが掛って印象深くなる。


ところで日本でも有名なラテン音楽の大家トリオ・ロス・パンチョスが、同様に『エストレリータ』を歌っている。これがハイフェッツの『エストレリータ』に似ているのだ。ハイフェッツの『エストレリータ』はトリオ・ロス・パンチョスの『エストレリータ』を聞いてバイオリン曲に編曲したのかも知れない。


ハイフェッツの『エストレリータ』の録音は、1928・5・8ニューヨーク録音。


以上のことで、トリオ・ロス・パンチョス(1944-1981)からの影響という仮説は不成立だ。そして1940年のハイフェッツの南米旅行でメキシコで『エストレリータ』を聞いて編曲した仮説も不成立だ。


トリオ・ロス・パンチョスは1944年にニューヨークで結成されたメキシコ音楽の歌手たちで、メキシカン・ハット、ポンチョ、ギターというスタイルで売り出した。アメリカには相当のヒスパニックの人口がいて、それなりの需要があった。


アメリカのメキシコ料理のレストランや酒場で、メキシコ音楽の演奏家の歌う『エストレリータ』を、客としてやってきたハイフェッツが聞いて感激した。原曲をかなり変えて歌っていた。それで録音したのではないか。(1928年のことだった。)


1939年、ハイフェッツは音楽映画『彼らに音楽を』に出演して、映画の中で数曲を演奏したが、その一曲に『エストレリータ』を選んで演奏した。これが爆発的な人気になった。ラテンアメリカとは縁も所縁もない所で名曲を発見し流行させた。


ハイフェッツは1946年・1947年・1950年のいずれかないしは各年に『エストレリータ』を録音し直した。


偏愛の巨匠ハイフェッツから生涯に渡って『エストレリータ』は偏愛をうけたのだった。元来は巷の場末で歌われる通俗曲だった。巨匠に拾われて珠玉の名曲に磨かれて輝いたのだった。原曲の『エストレリータ』はさほどの名曲ではなかったが、ハイフェッツのバイアツを経過して名曲に生まれ変わった。