続パスカルの葦笛のブログ

FMラジオやテレビやCDのクラシック音楽の放送批評に特化したブログです。

吉田秀和と京須偕充

 
TBSテレビの名物番組『落語研究会』で長らく解説をしている京須偕充は落語評論家である。しかし隠れた面はソニー・レコードの課長というサラリーマンであった。さらに驚くべき話はソニーで発売するクラシック・レコードの新譜を毎回鎌倉の吉田秀和邸に運ぶ人だったことだ。レコードのライナーノーツの依頼をするためであった。


さらに不思議なのは、吉田秀和はソニーの課長さんが裏仕事では有名な落語評論家でもあったことは、噂では知っていたが、その件については不知を通したことだ。


多分吉田秀和と京須偕充は狷介な人物で、お互いに他人の領分を犯さない、自分の領分をわきまえた人だったのであろう。一国者、頑固で自分を曲げない人という言葉がある。一国という音楽の国があり落語の国があり、お互いにその国の殿様で専制君主だった。他人の意見を傾聴する気はなかった。他国の領土を侵さず犯されず、茶飲み話に「ところで志ん生はどうなの」という話は終ぞ出なかった。そうやって円生やフルトベングラーの名人芸に話が及んだら、どんなにお互いの心に滋養があったか知れない。が、見解の相違で話別れになることだってある。二人はそれを恐れたのだ。大人の付き合いであった。それで歌舞伎や狂言や相撲や多岐に及んだ話題で、吉田秀和に落語の話に及ばなかったことを惜しむ。身近にその道の大家がいたのだった。


ところで、聞く話によると小林秀雄は山の頂にあった家から吉田秀和邸の向かいの建売住宅に引っ越したらしい。散歩に行って即決して来た。今吉田は売れっ子だという噂が聞き捨てに出来なくて、この目で確かめたかったのだ。そこに山桜の木があって害虫が酷く切り倒すことになったが、朝日新聞に文章を書いて吉田秀和は倒木を憂いた。消毒で倒木を中止したのだが、これが小林秀雄の山の家にあった奥村土牛の描いた桜木だというのだ。


吉田秀和邸には毎日日参する編集者の原稿依頼が引きを切らず、他方小林秀雄邸は閑古鳥が鳴いた。誰も大御所に原稿依頼が承諾されるとは思わないので、編集者の足が遠のいた。二人の関係は険悪の間になっていったらしい。吉田邸の繁盛ぶりを小林邸からイライラする小林秀雄の姿があったとかなかったとか。吉田は小林の文章を書写して勉強した。あすこまで追いつこうと走ったら、越えてしまった。こんな小童が大小林を投げ倒した。吉田の息子は高校の教師で、母と離縁してドイツ人と再婚するとは夢にも思わなかったので、生涯憎んだという。


そう考えると、吉田秀和と京須偕充の距離を保つ関係は正解だった。