続パスカルの葦笛のブログ

FMラジオやテレビやCDのクラシック音楽の放送批評に特化したブログです。

バイロイト音楽祭を訪れた日本人(1)

前史
幕末期の横浜外人居留地で、ペリー来航の従軍画家をしていたハイネが滞在していると、ロシアからアメリカに向かうバクーニンが1861年、燃料補給に横浜港に寄港して、偶然の再会をおこなった。二人はドレスデン革命の闘士であった。革命に参加して失敗をして国外に亡命した。ハイネはアメリカに逃れて画家になり、ペリーの極東旅行に参加したわけだった。


ワーグナー(1813-1883)はドレスデン宮廷楽長をしていた時、バクーニンの主導した革命に参加した。この時バクーニンの無政府主義の影響を受けたわけで、ショウペンハウアーが登場するまで、バクーニン主義の思想が堅持された。『ニーベルングの指環』の構想はこの頃作られ、生涯を通して基本思想は堅持された。この時知った30人ほどの進歩的文化人・社会主義者とは生涯交流が保たれたのである。


忘れてならないのは、ショウペンハウアーを知って社会改革の挫折を厭世主義で癒そうとした時、一群の有機沈殿物の中にニーチェがいたわけだが、反動的思想家チェンバレン(1855-1927)がいた。娘のエーファ・ワーグナー(1867-1902)はチェンバレンと結婚しロイヤル・ファミリーの一員になる。この兄が38年間東大講師をした日本学者のチェンバレン(1850-1935)だった。晩年はワーグナー家との交流があったというのだから、凄いものだ。あのワーグナーが日本のチエンバレン宛の手紙を書いていたかも知れないのだ。


ちなみに息子のジークフリート・ワーグナー(1869-1930)は、若い頃に極東を含んだ世界旅行をしていて、日本を訪問している。東京の親せきを訪れたのかも知れない。およそ縁遠いワーグナーだが、親せきが日本にいたとなると急に身近になる。その頃八十日間世界一周など、世界旅行がブームだった。