続パスカルの葦笛のブログ

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バイロイト音楽祭を訪れた日本人(2)山田耕筰

(1)山田耕筰(1886-1965)
作曲家山田耕筰は1910-12年ドイツ留学をした。詳細には1913年12月にベルリン駅を出発して、シベリア経由で1914年に帰国した。


その間山田耕筰はバイロイト音楽祭を訪れている。よほど感銘を受けたのか、帰国すると三菱の岩崎小彌太の支援で、バイロイト音楽祭のような専用劇場を建設してバイロイト音楽祭のようなものを開催したい構想を持った。1920年に歌舞伎座で「タンホイザー」初演を指揮しているから、熱の入れようは高かった。


では山田耕筰はバイロイト音楽祭でどんなものを見聞したのであろうか。(この頃バイロイト音楽祭は一年おきの開催であった。)


1910年 中止。
1911年 「パルシファル」指揮ジークフリード・ワーグナー、ボーリング。
      「ニーベルングの指環」指揮ジークフリード・ワーグナー、ボーリング。
      「マイスタージンガー」指揮リヒター。
1912年「パスシファル」指揮ムック、ボーリング。
     「ニーベルングの指環」指揮ジークフリード・ワーグナー、ボーリング。
     「マイスタージンガー」指揮リヒター。
1913年 中止。


山田耕筰がバイロイト音楽祭を訪れたのは、1911年か1912年ということになろう。劇場の特異な構造に関心を持っていたことから、「パルシファル」に演目は絞れそうである。とすればカール・ムック(1859-1940)の指揮した「パルシファル」だったということになろう。


バイロイト祝祭劇場は「パルシファル」を上演するために建設された。そしてこの劇場でしか上演出来ない特許権があった。


ムックは「パルシファル」抜粋のレコード録音をしていて、「場面転換の音楽」は特別な響きを提供している。おなじ頃のワルター(1876-1962)のレコードを聞くと、ベルリオーズの「幻想」と同じ鐘の音がしているが、ムックのレコードは特別製の音だ。


「ボンボン時計」と俗称でよばれる古い柱時計があるが、ムックも単なる鐘の音ではなくて、「ボンボン時計」の音を響かせている。これは聞きものである。バイロイト音楽祭のオリジナルな「場面転換の音楽」、ワーグナーの音はその音なのであろう。


もっとも「場面転換の音楽」は、「パルシファル」上演時に、舞台装置のための場面転換が10分必要になり、急きょ弟子のフンパーディンク(1854-1921)に作曲させたのであった。だから「パルシファル」には他人の作曲した音楽が入っている。彼は「パルシファル」の中から適当にメロディーを選んで10分演奏出来る音楽(ポプリ)を作ってきた。演出が変われば必要なくなるのだが、余りにも出来が良いので、あえて他人(プンパーディンク)の音楽もワーグナー同様として演奏されるのが伝統になった。


ワーグナーのオペラは戦後になってようやく上演されるようになったが、戦前で「パルシファル」に異常な感動を覚えたというのは山田耕筰ならでわであろう。物語は変てこだったが、色彩の魔術師ワーグナーの音楽はロシアの音楽家スクリャービンの実験音楽に通じていることで感動している。今東光はスクリャービンの『法悦の詩』が快楽浄土の世界で鳴っている音楽とはああいうものだろうと共鳴している。高野山の声明がグレゴリア聖歌だったというのは戦後のことだが、ワーグナーになると洋の東西が急に接近してきた。しかし和製バイロイト劇場の構想はワーグナー熱の冷却と共に忘れられた。