続パスカルの葦笛のブログ

FMラジオやテレビやCDのクラシック音楽の放送批評に特化したブログです。

バイロイト音楽祭を訪れた日本人(11)吉田秀和

大物といえば吉田秀和が「バイロイト詣で」をしていたことを落としていた。小林秀雄が近代批評を確立した人といわれているが、文学と音楽を橋渡しして両義的な読者を確立した人が吉田秀和である。それまでは文学と音楽(クラシック)は別物で、読者は分かれていた。交流することもなかった。


吉田秀和は二十世紀音楽研究所所長として戦後の前衛音楽の開拓に腐心した人で、その普及に献身したひとであったが、最初は保守的な音楽には関心も興味もなかった。シュトッケンシュミットも後年フルトベングラー分析に手を染めるに至ったが、前衛音楽に身を捧げた御神酒徳利であった。呼合して二人はフルトベングラーを評論するに至った。孤高の白い巨塔から降臨して、大衆啓蒙のレコード評論家になったわけである。


1954年、安宅産業店主の援助で世界漫遊の旅行に出発して、ぎりぎりでトスカニーニとフルトベングラーの謦咳に接する。8月8日にバイロイトに到着すると、8月9日には例のフルトベングラーの第九に接している。8月10日ー14日伝説的な演奏のカイルベルト指揮でリング四部作、15日タンホイザー(カイルベルト)、16日ローエングリーン(ヨッフム)、17日パルシファル(クナッパーツブッシュ)を観劇した。バイロイト滞在10日間に及んだが、8月18日、さして感激もせず出発した。吉田の好きな言葉で言えば昨日の音楽であった。彼の目指していたのが今日の音楽であった。


1962年7月27日ー8月5日、ヴィラント・ワーグナー演出クナッパーツブッシュ指揮で「パルシバル」観劇のために滞在した。1961年「パルシファル」にアメリカのテナー歌手ジェス・トーマス(1927-1993)をパルシファル役に起用して大変な評判になった。


私は、1962年にほんの数日よっただけで、あとは今度の旅行まで、ここには来なかった。(『音楽の旅・絵の旅』)


昨年の世評のために確認しに来たというのも凄い話だ。しかし確実に昨日の音楽に接近してきたという心境の変化の兆しが見える。
1976年バイロイト音楽祭の再々訪であったが、打って違っていた。前衛音楽の救世主ブーレーズがこともあろうに19世紀の音楽ワーグナー再評価に転じたように、吉田秀和もワーグナー再評価に転じていた。かつての盟友ブーレーズ応援の意味合いもあったようだ。応援といえば、フランスからローラン・バルトもはせ参じて、ブーレーズのリングの観劇をしていた。吉田秀和は7月20日にバイロイトに到着する。『音楽の旅・絵の旅』では、7月20日金曜日と記しているが、正確には火曜日である。



18日   19日   20日   21日   22日   23日   24日
            到着。
25日(日)26日(月)27日(火)28日(水)29日(木)30日(金)31日(土
                  黄金    ワル    トリス   トリス
 1日    2日    3日    4日    5日    6日    7日
 トリス
15日   16日   17日   18日   19日   20日   21日
                        トリス   パルシ   黄金
22日   23日   24日   25日   26日   27日   28日
ワルキ   トリス               ジーク   黄昏   ベルギー出発


7月28日初日の「ラインの黄金」で、ここにローラン・バルトが出席したのだろう。「ワルキューレ」の後の二作品は8月2日以降にあったことになる。数日は同じ空気を吸っていたわけだ。


7月30日、『トリスタンとイゾルデ』をカルロス・クライバーが指揮した。7月31日、8月1日は推測の域だ。第三回目でクライバーは手首を怪我したということで、指揮台から急きょ降りた。後任探しとなり、ホルスト・シュタインに代行された。たぶん代役を探して断られた。『パルシファル』を指揮したシュタインが最終的に引き受けた。


8月19日『トリスタンとイゾルデ』をシュタインが指揮した。ブログ「パンセ」さんが19日、20日、23日(すべてシュタイン)を観劇したことを載せておられます。それを利用させてもらいました。


8月21日「ラインの黄金」以下四部作が上演された。この方を吉田秀和は観劇している。


8月23日(月)
一昨日、昨日と、『ラインの黄金』と『ワルキューレ』をきいた。今日は午後から、『指環』でなくて、『トリスタン』が演奏される。この『指環』の中間で休みがはさまることは、本当に良いことだ。そのため、私たちは、一息ついて、少し考える余裕を得る。(『音楽の旅・絵の旅』)


8月23日月曜日、吉田秀和と「パンセ」さんは同じ日にトリスタンを観劇していたことになる。さらに文章は続く。


8月**日
『ラインの黄金』と『ワルキューレ』のあと、一日はさまれた休みの日には『トリスタン』をきいた。
かつて、きいた『トリスタン』の中で、最も貧弱な公演。あるいは、かつて、バイロイトできいた、あらゆる公演中、最も霊感に乏しい演奏といってよい。こんなつまらない舞台を、バイロイトで経験することがあるだろうとは、私は予想したこともなかった。・・・私のぶつかったのは、そのクライバーの受持ちが終了して、シュタインの順番になった第一日に当たる。運が悪かった。(同)


なんとも辛辣な批評が続くのである。カルロス・クライバーの降板を援軍しているらしい。


さて、「パンセ」さんは、19日にも「トリスタン」が上演されたとあるから、「そのクライバーの受持ちが終了して、シュタインの順番になった第一日」というのは事実誤認だろう。もっともこの方が話は面白い。よほどシュタインの指揮が下手だったらしいが、吉田秀和の話の通りなら、さりありなんである。シュタインの指揮を貶める話だが、事実追及する必要のある話ではある。19日がクライバーで23日がシュタインであったら、話は面白過ぎる。クライバーが怒って降板するわけだ。第二回目の吉田秀和のバイロイト滞在は40日の滞在であった。


追記。要するにクライバー降板の張本人はシュタインだという結論なのだろう。吉田の激しいシュタイン批判は裏事情を要約したものだろうが、それにしてはこの噂が世評に登らないのはどうゆうことか。表面を取り上げれば、穴を開けなかった功労者で、それを非難する吉田秀和は理不尽である。途中で降りたクライバーが悪人で、それを救ったシュタインは救世主だ。なのにあれほど非難するのである。真実はその逆だったから。



田秀が図和