続パスカルの葦笛のブログ

FMラジオやテレビやCDのクラシック音楽の放送批評に特化したブログです。

テンシュテット=マズア対談異聞

かつて『レコ芸』に、テンシュテットとマズアとがニューヨークで落ち合ってバーの一隅で対話したという対談が掲載された。貴重な資料である。マズアがニューヨーク・フィルの常任指揮者をしていた時期、テンシュテットも頻繁にアメリカ公演があった。ちょうど2人がニューヨークで遭遇したという貴重な時間があった。


マズア「それにしても俺たちはよくもまあ有名になれたよな」
テンシュテット「まあな」
 とはいえ、マスアは最初から東ドイツの輝ける星で、表街道を歩いて来た。それにひきかえてテンシュテットはお先真っ暗で、中年で西ドイツに出て最初からキャリアを築かなければならなかった。二人は小さな地方オーケストラで、若手指揮者とコンサートマスターとして同僚であった。
テンシュテット「ところであんた、一人の日本人が近づいて来て、何か話しかけたが、覚えているか」
マズア「ああ。よく覚えているよ」
テンシュテット「何をはなしていたんだ」
マスア「あの日本人が、あなたは若手の指揮者では一番才能があるというのだ」
テンシュテット「へえ」
マズア「いや、待ってください。私は自分が才能がありたいとは望んでいますが、今はとても才能に自信がありません。うれしいが、お断りしたい」
 その日本人が山根銀二だった。世界で最初にマズアの才能を見抜いた最初の人間になった。


テンシュテットは東ドイツで指揮者の仕事が全くなかった。仕事無し地獄であった。西世界に出ると、瞬く間に人気が出て、今度は仕事地獄になった。ガンの発病があり、闘病生活があった。これはストレスによるものであろう。無名のままで死ぬか、有名になって死ぬか。その狭間で生きた人だった。その中間がなかった。


東ドイツでも報われず、西ドイツでも報われなかった。西ドイツに出て、グラムフォンの重役に自己アッピールして反発を買った。そのグラムフォンの重役とはハンス・シュミット=イッセルシュテットの息子ではあるまいか。北ドイツのラジオ局でもベルリン・フィルとも喧嘩した。ほとほと母国ドイツと相性が合わなかった。


ひるがえって、イギリスとアメリカとは相性が良かった。メトロポリタンオペラでは最高の「フィデリオ」と褒められた。ニューヨーク・フィルやボストンでもエロイカの伝説的成功があった。


付記。西ドイツに移ってからまもなく、ヘルシンキ音楽祭に招待されたテンシュテットはヘルシンキ交響楽団でエロイカを指揮した。シベリウスの本を書いていた音楽評論家菅野浩和が偶然にも聞いていた。その一年後NHKFMでこの演奏が紹介された。菅野浩和の働きがげがあったのではないか。彼の解説と演奏が流れた。ともどもカセツトでエア・チェックしたのはいうまでもなかったが、いくつかある我がアルヒーフの自慢物である。チャールズ・ローゼンとインバル指揮でベト4のコンチェルトなどあわや消されるところだが、有名な理論家ピアニストとは知らなかった。