続パスカルの葦笛のブログ

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バイロイト音楽祭を訪れた日本人(12)高木卓

高木卓(1907-1974)はワーグナー学者の第一世代で、戦前戦後のワーグナー物の第一人者であった。ワーグナーの歌劇台本や評論や小説の翻訳を手掛けた。


トスカニーニやフルトベングラーですら、ワーグナーの序曲で演奏会を開いて、これを是としていたわけである。長い間ワーグナーの理解は欧米ですら序曲で代行されていた。今から考えると笑止千万のことである。


藤原歌劇団があって本格的歌劇団の二期会がある。本場のイタリア・オペラやドイツ・オペラがそのまま来日公演すると、本格的オペラの二期会が偽物に見えて、凋落した。そのくらいの落差がある。まがい物と皮肉された藤原歌劇団がしぶとく生き残っている。


ワーグナーの第一人者高木卓は、1960年にバイロイト音楽祭を訪れた日本人になっている。もはや戦後ではないと、戦前のGNP指数最高潮の昭和九年を超えて高度成長を達成して、こんなところにも経済の繁栄の恩恵を受けている。海外旅行が可能になってきた。


1960年のバイロイト音楽祭の演目を紹介したい。
パルシファル    クナッパーツブッシュ
リング       ケンペ
マイスタージンガー クナッパーツブッシュ
ローエングリン   ライトナー、マゼール
オランダ人     サバリッシュ


高木卓はどうも全プログラムを見たようである。


1960年の夏、私は南独バイロイトに二週間ほど滞在して、当年度のワーグナー祭の全上演に接したが、かりにフルトベングラーが生きていて指揮棒を振ったとしても、その指揮ぶりを目にすることはできなかったであろう。いうまでもなく、バイロイトの祝祭劇場は、オーケストラを舞台の下にかくしているからであり、たとえ最前列にすわっても、オケ・ボックスのなかをのぞきこむことは、ぜんぜんできないのである。


一番短いローエングリンやオランダ人であろうと思っていたら、二週間で全上演に接したというのだから、およそ無謀な観劇に近い。ちょっと二週間では足りないのではないか。小林秀雄は艱難辛苦で観劇したと丸山真男は皮肉っているが、そのまま高木卓にも当たるだろう。


その点でショルテイ指揮ウィーン・フィルの『指環』録音は画期的であった。ワーグナーの不魔殿が白日の下に照らし出されたと言えた。石坂浩二がもっかショルテイのレコードで聞いているという評判があった。如才ない才人のことだから、ワーグナー・ファンになったことは間違いない。ワーグナーの序曲から本格的マニアが誕生した時代だ。


高木卓といえば、幸田露伴の妹幸田延・安藤幸の安藤幸の長男ということになっている。上野音楽学校の初代のバイオリンとピアノの教授として名高い。幸田延は有名なブラームスの盟友ヨアヒムの直伝というから凄い経歴だ。晩年はバイオリンから離れ琴を弾いて楽しんだというから、うら寂しさがある。日進月歩の凄まじい進化の中で、己の分際を良く理解し荒立てることなく時勢に身を処したのである。それは幸田露伴の人生訓と同じく美しい身の処し方だった。


高木卓もワーグナー学者として最初を担ったわけだが、父親の英文学者安藤勝一郎の血を引いてしまったのか、幸田家の美徳はなかったようだ。東大でドイツ語を習った畑正憲は佐賀訛りを高木卓からからかわれたという。音楽に造詣のある幸田家なのだが、音楽としてのワーグナーは到底理解が及ばない時代制約を露骨に受けていた。分からないワーグナーの音楽を分かった気にするという相当のプレッシャーがかかった。そういう不徳の至りが学生畑正憲いじめになった。


クリストファー・野沢が幸田延のレコードを収集して聞かせたことがあったが、そこまで収集する価値があるものか違和感があった。最初の女医荻野吟が女医としての生涯を全う出来ないほど医学の日進月歩の進歩があり、女医を辞めてしまう。開拓者の宿命があるわけだが、幸田露伴は人生訓を残している。時代に抗うことなく生きよ。