続パスカルの葦笛のブログ

FMラジオやテレビやCDのクラシック音楽の放送批評に特化したブログです。

バイロイト音楽祭とクレンペラー

人にはなるほど運・不運があるようだ。


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1959年のバイロイト音楽祭では、クレンペラーは『マイスタージンガー』の指揮が予定されていた。1958年10月に三度目の火傷で一年間仕事が出来なくなって、1959年の『マイスタージンガー』の指揮は出来なくなってしまった。代行はラインスドルフで、いかにも代用指揮者の名前である。


そしてクレンペラーの『マイスタージンガー』の指揮も、実は元来予定されていたのがクリュイタンスであったょうだ。彼も代用指揮者であったということだ。


『マイスタージンガー』1956-1958指揮クリュイタンス
『マイスタージンガー』1959     指揮ラインスドルフ
『マイスタージンガー』1960     指揮クナッパーツブッシュ
『マイスタージンガー』1961     指揮クリップス


以上のラインアップだから、元来はクリュイタンスの穴埋めということになる。


クレンペラーは1959年10月はメトロポリタン歌劇場で『トリスタンとイゾルデ』を指揮する予定であった。前後するが、オランダ音楽祭でも『トリスタンとイゾルデ』を指揮する予定であった。


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1965年8月、クレンペラーはウィラント・ワーグナーからバイロイト音楽祭の観劇に招待された。そしてベートーベンの交響曲9番の指揮を依頼された。クレンペラーはフィルハーモニア管弦楽団での演奏を望んだ。ウィラント・ワーグナーは事務局と相談すると祝祭管弦楽団との演奏を希望するので、御破算になった。楽団員は寝食だけのボランティアなので、非常に強い発言権があるらしい。


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1967年EMIのプロデューサーのアンドリューから『さまよえるオランダ人』の録音を提案された。クレンペラーは昨今のオペラ事情を知るためにバイロイト音楽祭の『タンホイザー』(ドホナーニ指揮)を観劇することになった。出演していたアニア・シリアに一目ぼれして主役に抜擢した。


1969・2、3・8-14日、ロンドンのアービーロード・スタジオで録音が始まった。
『さまよえるオランダ人』を録音中、ジョージ・セル(1897-1970)がロンドンに滞在していて、今クレンペラーが録音していると聞いて見学に訪れた。クレンペラーは上機嫌でフィアンセだとアニヤ・シリヤをセルに紹介した。またセルを「ヤング・ボーイ」と呼んだ。クレンペラー82歳、セル70歳であった。またウィラント・ワーグナーからバイロイト音楽祭で『トリスタンとイゾルデ』を指揮しないかと申し込みがあることを公表した。


『トリスタンとイゾルデ』1962-1964指揮ベーム
『トリスタンとイゾルデ』1966、68,69,70指揮ベーム
『トリスタンとイゾルデ』1974指揮カルロス・クライバー


もうベームの『トリスタンとイゾルデ』の続行はなく、新しい人で上演したかった。1971年ウォルルガング・ワーグナーはクライバーに『トリスタンとイゾルデ』の指揮をしないかという手紙を出した。1972・8・26、ショルティのキャンセルがあると、つかさずクライバーと『トリスタンとイゾルデ』の指揮の契約を交わした。ベームの後釜を探していたのだが、クレンペラーも候補に挙がっていたのだ。


1974年クライバーの『トリスタンとイゾルデ』が上演される前年、クレンペラー(1885-1973)は没した。バイロイト音楽祭の殺人的スケジュールはとても高齢のクレンペラーには無理があった。クレンペラーとは無縁なバイロイト音楽祭であったが、多少の縁はあったわけだ。


さて余談だが、安倍さんを殺した犯人だが凄まじい事実が浮かび上がってきて、人の運不運にも凄まじいものがある。母親は某宗教団体の前に朝起会なる団体を信仰していた。養育放棄までして信仰に入り、夫婦喧嘩が絶えず、遂に夫の方がビルから飛び降り自殺をする。安倍さんの事件がなかったら決して明かされなかった事実だろう。蟻の一穴で巨大な堤防が破壊される。そんな思いがする。事実が暴露され同情が湧いて、刑に服して下さいと言うしかない。