続パスカルの葦笛のブログ

FMラジオやテレビやCDのクラシック音楽の放送批評に特化したブログです。

グレン・グールドと『草枕』(3)戦後3人の新人グールド・ウォーホル・ディラン

トランプによって分断ということが言われるようになったが、地方と都市の分断は古今東西あったわけで、漱石の『三四郎』やトマス・ウルフの小説はそれを扱っている。地方から首都に上京する若者は余りの文化格差に驚き、この街で頭角を現せるのだろうかと悩む。(
意外に人間の味覚は全国統一されず地方の特色が生かされて、分断は味覚では維持されるようだ。)『東京物語』では尾道から上京した老夫婦は、一家の出世頭の長男が下町の町医者に過ぎないのに落胆する。息子は東京は「余りに人が多過ぎる」と弁解する。ついでに、東京ではマグロよと杉村春子は自慢するが、東山千栄子が尾道の鯛の方が旨くて安いと反論する。マグロと鯛という分断がありますね。


グレン・グールドの物語はこれと大して違わない。そんなアメリカの若者は学校を卒業すると、地方からニューヨークを目指して上京し、文化ショックと人が多過ぎる中で個性を発揮しようと悩むのである。出世のヒェラルキー(三角形)をどう登り詰めるのか、眼が眩むほど頂点は高くそびえている。


グレン・グールド(1932-1982)は、1946年トロント音楽院を卒業すると、それだけの学歴でニューヨークに出て来て、一人前のピアニストになろうとしているのだった。天才の巣窟のジュリアード音楽院があり、トロント音楽院卒では敵う訳がない。1956年の『ゴールドベルク変奏曲』録音までの血みどろな悪戦苦闘があるわけだ。グールドと専属契約を結んだレコード・プロデューサーが、実はバーンスタインのプロデューサーと同じだったことは、一連の二人のベートーベンピアノ協奏曲全集録音の経緯と重なっていることで判明する。ベートーベンの2番とバッハの1番の録音が1957年であるからだ。ひょっとしたら、グレン・グールドの発見はバーンスタインではなかったかという推論もありえる。早すぎる二人の共演がそれを物語っているからだ。戦後の二大天才の共演で大いに売り出すわけだが、竜虎相立たずでしだいに二大天才は反目し合う。『ゴールドベルク変奏曲』を評価してくれた音楽評論界の法王ショーンバングが裏で糸を引いたというのが小生の見立てで、故意にグールドの見解を支持して反目させたのではないか。それが1960年のバッハ1番、1962年のブラームスの1番だ。1963年2月2日のラジオ・インタービューでグールドはブラームスの1番の演奏を回想している。


「テンポと強弱のバランスを普通よりも厳密に決めた。それより、強弱やテンポの面での誇張がより少なくなり、主題の扱い方に関して、よく言われる男性的な第一主題と女性的な第二主題という違いがあまり目立たなくなった。もっとずっと緊密に一体化された演奏になり、まさに私が求めたとおりものができた。」


「いいじゃないか。天才」とショーンバーグは褒めた。「でもバーンスタイン氏は賛成ではないようでした」という。「あんな奴のことなんか無視しろ。君の方が天才なんだから」「そうですかね」「俺がついている。安心しろ。奴は君をスポイルしたいだけだぞ。天才両立せずなら、相手を喰い殺すしかないじゃないか」ということでグレン・グールドはバーンスタインを喰い殺す手に出たのではないか。


アンディ・ウォーホル(1928-1987)は中西部の移民の子供として生まれ、地元の地方大学を卒業すると、さっそくニューヨークに出て来て画家になろうとする。美術関係の仕事に就職すると、今一番輝いている男小説家のカポティの追っかけを始めた。芸術活動で認められて美術界のヒェラルキーを一段一段登るという術も知らなかった。有名人に近ずくだけで芸術に近ずく気がした。それでもカポテイの視線に認められたことが嬉しかったという。それだけが励みになった。
どんな人も業界の基準に自分を合わせて成功してゆくのだが、彼にはそれが出来なかった。典型的な学習障害だった。ポップ・アートが値上がりして投資の対象として認められるまで、彼はアーテイストとして認められなかった。お騒がせ有名人が彼の姿であった。しかしポンパドール夫人以来デビ夫人まで、スキャンダルを生業として生きて来た人々がいる。こういう人は死ぬと跡形もなかったが、ウォーホルは高価な跡形を残したということで芸術家であった。この人は芸術ということがそもそも理解出来なかった。コカ・コーラの無限に発生する泡粒を見ていて、ポップ・アートとは泡のように消える無価値な芸術という意味だが、泡の大量発生つまり大量複製が新しいコンセプトだと閃いた。誰でも知っているトマトスープの缶詰を大量複製した。泡のように消えるのではなく大量発生するとこに着目した。大量複製の時代の芸術を見事に読解したことで、成功した。時代が彼を拝礼した。


ボブ・ディラン(1941-)はミネソタ州にロシア系移民の子として生まれた。高校生の時ラジオでプレスリーを聞いて憧れた。初めて人に憧れこんな人になれたらいいなという願望を持った。ミネソタ大学に入学すると、プロの歌手になろうと思う。プライドだけは高かった。「自分はこんな所にいる人ではない」と思った。自惚れこそ芸術衝動の原点である。1961年、大学を中退しニューヨークに出て来た。グリニッジヴィレッジに住んでカフェやバーでギターを弾いて喰いつないだ。21才の時初めてのレコードを発売したが、只の歌手のレコードで何の取り柄もなかった。この頃ウォーホルと知り合った。どうすればアーティストになれるか、具体的に示してくれた恩人になった。陽気なプレスリーを真似て売れる訳もなく、芸術とはその逆を表現することしかない。陰気で売り出すしかなく、ダミ声と政治的プロテストでウッディ・ガスリーが理想だと気づく。22才で、『風に吹かれて』をヒットさせた。道が開かれた。


1950年代のニューヨークはこんな地方からやって来た若者たちであふれていた。しかしそのほとんどは成功しなかった。この頃にも親ガチャはあって、親ガチャの子供たちばかりだった。その点バーンスタインは親に恵まれ、才能に恵まれ、エリートの道を進むだけだった。生え抜きのエリートだった。


さて、吉田拓郎はボブ・ディランに憧れてフォーク歌手になったが、彼のようなプロテスト(政治)が分からなかった。そこで日本人の典型的な花鳥風月を歌うしかなかった。何も世間に不満があるわけでもなし、髪が長髪になったら結婚しょうと花鳥風月を歌うしかなかった。自然を歌うしかなかった。これなら歌えた。ボブ・ディランはその後政治から離れて、ユダヤ人の家族扶助主義が正しいと転向した。今ボブ・ディランは『風に吹かれて』を原曲の原型の跡も残さないような歌い方に変化した。これは現在のボブ・ディランが若いボブ・ディランを否定しているのだろう。ノーベル文学賞の対象になった『ボブ・ディラン全詩集』は若気の至りであった。政治的プロテストは間違いだった。畑で百姓をして農産物を生産し、家族が病気で働けなくなったら、家族が兄弟親戚の世話をする。一年の自然暦に従った生活こそ人間の生き方である。これが現在のボブ・ディランであったなら、ボブ・ディランは花鳥風月を歌う吉田拓郎に戻って来たということになりはしないか。ノーベル賞に冷淡だったのは今は否定している自分への過分な評価だったからである。


付記。深夜テレビを入れたら、ケフェレックでモーツアルトの27番。今年74歳で13年ぶりの読響登場だとか。シューリヒトが登場したり、騒がしい限り。次回はヴァイグレで『ドイツレクイエム』とか、これが期待出来る。