続パスカルの葦笛のブログ

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グレン・グールドと『草枕』(5)グレン・グールドの本文朗読

Oこれから第一章の抜粋を朗読します。(グレン・グールド)


*山路を登りながらこう考えた。智に働けば角が立つ。情を通せば窮屈だ。とかくにこの世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれ,画が出来る。(岩波文庫7頁)


古来より『草枕』の有名な冒頭文章で、この本のコピーでもある。そしてそれ以上は何も知らないのである。漱石は明治の知識人だが、明治百年の日進月歩はなにも漱石の蘊蓄に敬意を払うことはない。後代の知識人の方が遥かに造詣は凌駕している。『草枕』程度の蘊蓄や哲学は軽薄である。西田幾多郎は夏目漱石は江戸っ子の哲学だと軽蔑しているほどだ。軽薄な江戸っ子にどんな思弁があるか、ということだ。


そういうことで『草枕』がどんな小説だかよく知らないのである。そしたら、グレン・グールドからトーマス・マンの『魔の山』に比定されるべき文学というのだ。同世代の文学者が同じテーマを論じているというのが凄い指摘である。


明治国家は旧幕臣にとって傀儡政府であって、明治教育に盲目的に追従した国民とは一肌違う感覚がある。グレン・グールドが漱石が戦争に不快感を持っているという指摘が凄い。大多数の国民は既に盲目的な愛国心に支配されているのだが、政府は薩長政府であってそこに旧幕臣が入っていない。王権簒奪という意識がぬぐえないのである。明治天皇と16代将軍徳川家達という2つの太陽を仰ぎ見た特異な時代だった。相互に違和感を拭えなかった。本当に王権の座についていいのだろうか、世が世ならあすこの座にいたのに。これに玉座に俺がいても可笑しくないという近衛文麿が出て来るのが昭和史だ。


登山して山の温泉宿とアルプスのサナトリウムという「同じコード」に気づいたグレン・グールドの着眼点は敬服する。人間は海スポーツと山スポーツに分類されるのだが、海が思索を生まないのに、登山は人を哲学者にするといわれるが、それと関係するのだろう。


漢詩人の名前が出ると削除するのは当然だが、グレン・グールはかなり漱石の冗長な議論をばっさり省略している。さっそく『草枕』の続き数行が省略される。


*人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向こう三軒両隣にちらちらするだだの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、超す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住にくかろう。超す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、くつろげて、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊い。住みにくき世
から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるいは音楽と彫刻である。(岩波文庫7ー8頁)


かなりグレン・グールドは漱石の地の文章を削除している。彼には気に入らなかった。


何故気に入らなかったのか。つらつらと考えて見るに、人の世は只の人が作ったという漱石の思想が気に入らなかったようだ。西洋人からすると社会・歴史は只の人は作らない。平等感の強い日本人の漱石には、容易にそういう発想が出て来るが、西洋人は選ばれた人間だけが社会や歴史を作るのである。秀吉は農民の子、漱石だって町人の子。鴎外だって下級武士の子、伊藤博文・山県有朋だって足軽の子。只の人が作る国なのだ。


王侯貴族は天授神権説があり、市民はフランス革命の進歩史観がある。ジャック・アタリは単純から複雑へ社会は進歩してより良い物になるという信仰を放棄したら、市民の存在価値を失うのである。だから今でも信じている。優秀な市民と捨て石の市民。ジャック・アタリもグレン・グールドもあっちの人なのだ。選ばれし高級市民である。