続パスカルの葦笛のブログ

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グレン・グールドと『草枕』(6)草枕本文

*こまかにいえば 写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。着想を紙に落とさぬともキュウソウの音は胸裏に起こる。丹青は画架に向かって塗抹せんでも五彩の絢爛は自から心眼に映る。ただおのが住む世を、かく観じ得て、霊台方寸のカメラにギョウ季混濁の俗界を清くうららかに収め得れば足る。この故に無声の詩人には一句なく、無色の画家には尺ケンなきも、かく人世を観じ得るの点において、かく煩悩を解脱するの点において、かく清浄界に出入し得るの点において、またこの不同不二の乾坤を建立し得るの点において、我利私欲のキ絆を掃蕩するの点において、ーー千金の子よりも、万乗の君よりも、あらゆる俗界の寵児よりも幸福である。(岩波文庫8頁)


Oこまかにいえば写さないでもよい。ただにまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。丹青は画架に向かって塗抹せんでも五彩の絢爛は自から心眼に映る。ただおのが住む世を、かく観じ得て、霊台方寸のカメラにギョウ季混濁の俗界を清くうららかに収め得れば足る。この故に無声の詩人には一句なく、無色の画家には尺ケンなきも、かく人世を観じ得、かく煩悩を解脱する。(グレン・グールド)


グレン・グールドの朗読はかなりすっぱり省略している。漱石の文章は漢文読み下しのリズムがあって、意味不明よりは口調が弾んで胃の腑に響くのであろう。読解は後回しでリズムで暗記するのである。暗記した後教養が読解に及ぶのである。そういう意味かと後で知るのである。そういう点でもこれくらい枝葉を刈ってくれると、難解な『草枕』も読み易くなろうというものだ。


内容は、グレン・グールドの原文抜粋で一目瞭然だろう。友人の正岡子規の写生文の趣旨である。和歌といい漢詩といい、レトリック(修辞)を駆使した技術が美学なのだが、カメラで写した写真の風景が詩そのものになっている。池に蛙が飛び込んだシャツターチャンスを、カメラ小僧が写真で撮った。芭蕉は俳句で説明したにすぎない。これが子規の写生文の極意である。法隆寺の鐘が柿の木から落下する柿をカメラのシャーッタ―チャンスが捕えたことなのであろう。芭蕉や子規には心のシャッターチャンスがあった。カメラのシャッターを押すだけで、写真の風景は詩になっている。どうしたら詩が作れるか。カメラのシャッターを押すだけ。ここで、兼常清佐(1885-1957)のピアニストも猫も鍵盤を叩けば同じ音が出てくるというピアノ無用論をグレン・グールドは思うたのだろうか。興味深い。


*世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏の如く、日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。三十の今日はこう思うている。ーー喜びの深きとき憂いいよいよ深く、楽しみの大いなるほど苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。片付けようとすれば世が立たぬ。金は大事だ、大事なものが殖えれば寝る間も心配だろう。恋はうれしい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろう。閣僚の肩は数百万人の足を支えている。背中には重い天下がおぶさっている。うまい物も食わねば惜しい。少し食えば飽き足らぬ。存分食えばあとが不愉快だ。(岩波文庫8頁)


O世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏の如く、日にあたる所にはきっと影がさすと悟った。三十の今日はこう思うている。ーー喜びの深きとき憂いいよいよ深く、楽しみの大いなるほど苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。片付けようとすれば世が立たぬ。金は大事だ、大事なものが殖えれば寝る間も心配だろう。恋はうれしい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろう。(グレン・グールド)


ここは省略することもなかったストレートな文章だ。漱石の意見にグレン・グールドは素直に従えると見た。二十歳で虚無思想に沈積しなかったというのは、どうだろう。神経衰弱と参禅に明け暮れ、異国に留学して発狂するほど孤独に耐えた漱石の実人生とは大いに相違していわしないか。まだ若い漱石だが、余命十年の漱石は達観している。漱石五十歳鴎外六十歳は如何にも短命である。そこでグレン・グールド享年五十二歳を思い出した。平櫛田中(1872-1979)百七歳にとって、五十六十は洟垂れ小僧といった年齢だ。


洟垂れ小僧の人生に、漱石もグレン・グールドもどう充実を盛込もうとしたのか。興味深いところだ。漱石50歳、グレン・グールド52歳という短命の人生も、奇しくも共通しているのだった。