続パスカルの葦笛のブログ

FMラジオやテレビやCDのクラシック音楽の放送批評に特化したブログです。

グレン・グールドと『草枕』(7)草枕本文

*余の考えがここまで漂流して来た時に、余の右足は突然坐りのわるい角石の端を踏み損くなった。平衡を保つために、すわやと前に飛び出した左足が、仕損じの埋め合わせをすると共に、余の腰は具合よく方三尺ほどな岩の上に卸りた。肩にかけた絵の具箱が腋の下から躍り出しただけで、幸いと何に事もなかった。(岩波文庫9頁)


O余の考えがここまで漂流して来た時に、余の右足は突然坐りのわるい角石の端を踏み損く
なった。平衡を保つため、すわやと前に飛び出した左足が、仕損じるの埋め合わせをすると
共に、余の腰は具合よく方三尺ほどな岩の上に卸りた。(グレン・グールド)


グレン・グールドは最後の一文を省略した。
ここは動作の描写だから、付け加えることはなかろう。


*立ち上がる時に向うを見ると、路から左の方にバケツを伏せたような峰が聳えている。
杉か檜か分からないが根元から頂まで悉く蒼黒い中に、山桜が薄赤くだんだらに棚引いて、続ぎ目が確と見えなぬ位靄が濃い。少し手前に禿山が一つ、群をぬきんでて眉に逼る。禿げた側面は巨人の斧で削り去ったか、鋭どき平面をやけに谷の底に埋めている。天辺に一本見えるのは赤松だろう。枝の間の空さえ判然している。行く手は二丁ほどで切れているが、高い所から赤い毛布が動いて来るのを見ると、登ればあすこへ出るのだろう。路は頗る難儀だ。土をならすだけならさほど手間も入るまいが、土の中には大きな石がある。土は平らにしても石は平にならぬ。石は切り砕いても、岩は始末がつかぬ。堀崩した土の上に悠然と峙って、われらのために道を譲る景色はない。向うで聞かぬ上は乗り越すか、廻らなければならぬ。巌のない所でさえ歩るきよくはない。左右が高くって、中心が窪んで、まるで一間幅を三角に穿って、その頂点が真中を貫いていると評してもよい。路を行くといわんより川底を渉るという方が適当だ。固より急ぐ旅でないから、ぶらぶらと七曲りへかかる。(岩波文庫9-10頁)


O立ち上がる時に向うを見ると、路から左の方にバケツを伏せたような峰が聳えている。(グレン・グールド)


グレン・グールドは以下一頁分省略する。見知らぬ熊本の阿蘇山系の自然風景などどうでもいいだろう。余談だが、熊本出身の移民の系譜があって、南米ではアキノ大統領、北米では指揮者のケント・ナガノの親が熊本移民なのだそうだ。一度ケント・ナガノは熊本にある実家に帰ったことがあったという。小沢征爾の2番目に成功した日本人指揮者ということになる。この人にはだからといって、日本人の特色があるということはない。アメリカの指揮者という特色しかない。成功の秘訣は日本人の特性という欠点を身に着けなかったことだ。


*忽ち足の下で雲雀の声がし出した。谷を見下ろしたが、どこで鳴いてるか影も形も見えぬ。ただ声だけが明らかに聞こえる。せっせと忙しく、絶間なく鳴いている。方幾里の空が一面に蚤に刺されて居たたまれないような気がする。あの鳥の鳴く音には瞬時の余裕もない。のどかな春の日を鳴き尽くし、鳴きあかし、また鳴き暮らさなければ気が済まんと見える。その上どこまでも登って行く、いつまでも登って行く。雲雀はきっと雲の中で死ぬに相違ない。登り詰めた挙句は、流れて雲に入って、漂うているうちに形は消えてなくなって、ただ声だけが空の裡に残るのかも知れない。
 巌角を鋭どく廻って、按摩なら真逆様に落つる所を、際どく右へ切れて、横に見下すと、菜の花が一面に見える。雲雀はあすこへ落ちるのかと思った。いいや、あの黄金の原から飛び上がってくるのかと思った。最後に、落ちる時、上る時も、また十文字に擦れ違うときにも元気よく鳴きつづけるだろうと思った。(岩波文庫10頁)


O忽ち足の下で雲雀の声がし出した。谷を見下したが、どこで鳴いてるか影も形も見えぬ。(グレン・グールド)


グレン・グールドは一行以下は削除した。山で鳴くのはウグイスで、平野で空高く飛んで鳴くのがヒバリではないかと思うのだが如何に。足を踏み外して転倒して、天地が逆になって谷からヒバリが聞こえたというのが軽味の妙ということになる。ニーチェの価値の転倒を言いたいが為なのであろう。山でヒバリが鳴くとは価値の転倒の先駆けか。