続パスカルの葦笛のブログ

FMラジオやテレビやCDのクラシック音楽の放送批評に特化したブログです。

モーツアルトと中村仲蔵、飲食タイムを芸術の頂点にした男

今NHKで『中村仲蔵』を放送していたが、洋の東西で舞台の飲食タイム(休憩時間)を芸術の頂点に変えた人物が二人いたわけだ。モーツアルト(1756-1791)と中村仲蔵(1736-1790)である。しかも同時代だった。


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モーツアルトは1764年にロンドンを訪問して、イギリスで自作交響曲1番K16を演奏した。世にいう最初の公開演奏会だった。会場はヘイマーケット劇場だった。


そこでこの演奏会で演奏された曲目の記録が残されていて、再現もされている。


ところで、この演奏会だが、一般には舞台に楽団が並び聴衆が入場券を買って、よくある普通の演奏会だと考えられている。


しかし実際には、ヘイマーケット劇場はダンスホールだった。しかも有名なカサノバの夫人が経営者で、二人の間に生まれた娘がいて、モーツアルトは会っている。実際のモーツアルトの最初の演奏会は、ダンスホールで開催された。お客はチケットを買って楽団がダンス音楽を演奏して、それに合わせてホールで男女がダンスをするのだった。


時間の合間に休憩が入り、男女はトイレに用足しに行き、飲食店で飲食をして、雑談をする。いわば自由時間で、その自由時間を利用してオーストリアから来客したモーツアルトが自作自演を許された。誰もモーツアルトの音楽を聴きに来たわけではないのである。モーツアルトも自作演奏の他にダンス音楽の演奏に参加したと考えられる。


この衝撃の事実は余り知られない。


1787年プラハで『ドン・ジョバンニ』が初演されるのだが、この頃ベートーベンのパトロンとして知られたワルトシュタイン伯爵(1762-1823)の図書館司書をしていたカサノバ(1725-1798)は、自分をモデルにした『ドン・ジョバンニ』を竹馬の友ダ・ポンテが台本を書いたので、プラハに見に来ていた。そしてとうとうプラハの貴族の館でカサノバとモーツアルトは会うのだった。二人は数回の旅行で、同じ土地を数か月遅れて同じ人物を訪問している。出会うようでいて安易に出会わないが、とうとう最後に出会う。その前にモーツアルトは妻と娘に会っている。共通の友人はダ・ポンテであった。『モーツアルトとカサノバ』はそういう本だ。


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中村仲蔵は、『忠臣蔵・山崎街道鉄砲渡り』をむさ苦しい田舎の猟師から全身白塗りの細男に変身させた。この場面は盗人が金を盗み、最後にイノシシと間違って殺されるだけで、観客は便所に用足しに行き、幕の内弁当を食べる食事時間だけの場面だった。そんな場面を見せ場に変えた名優だった。(モーツアルトと中村仲蔵が常識を変えた。)


ここで中村仲蔵は猟師を江戸の伊達男に変え、世界演劇史上最初にリアルな血を使うといった血糊の発明者だった。


古今亭志ん生の『中村仲蔵』は、墨田区業平の妙見山は願掛けの名所で仲蔵が演技の願掛けに行った帰りに蕎麦屋で、破れ傘のいなせな素浪人を見て、身を持ち崩したいい男のアイデアを着想することになった。テレビより納得出来る。


山賊の定九郎を零落したお坊ちゃんの定九郎に一捻りする発想は、映画監督中山貞雄を喜ばせた。戦死しなければ映画にした。そのシナリオで戦後東映は映画にしている。血糊は黒澤明に『椿三十郎』の大量出血のアイデアを与えた。


蜷川幸雄は帝劇の『仮名手本忠臣蔵』で、清家栄一の定九郎に、『ブラックレイン』の松田優作のイメージで演じろと命じた。ニヒルな男だ。


中村吉右衛門は逆に仲蔵以前の定九郎に戻した。市川右近も仲蔵以前にした。大阪松竹座の『仮名手本忠臣蔵』(平成21年)で仲蔵以前にした。歌舞伎では仲蔵の影響に身動き出来なくって、先祖返りが流行している。


立川志の輔の『中村仲蔵』、神田伯山の『中村仲蔵』は今絶好調だという。私は神田伯山の『中村仲蔵』を推薦したい。ユーチュウブで傑作の名演技を簡単に味わえる。


付記。余談だが、ベニスでカサノバとルソーは会っているが、ルソーは沈黙している。百科全書の音楽の項目は生きた音楽史カサノバから引き出している。ドレスデンのオーケストラの配置はカサノバから聞いた証拠である。ドーバー海峡の船ではルソーは有名なヒュームと一ベッドで寝ているが、所謂相部屋でよくある風習であった。しかしルソーにはその毛はなかったが、ヒュームはその毛があったらしい。ヒュームの手を払いのけて拒否すると、ルソーがヒュームの財布を盗んだと言い出して、二大思想家の不毛な非難合戦をした。ルソーは小さい時より女一筋の人だったらしい。串田孫一にそれを扱った本があるが、実のところホモ論争が背景にあるのを隠しているので、実に分かり憎い本になっている。