続パスカルの葦笛のブログ

FMラジオやテレビやCDのクラシック音楽の放送批評に特化したブログです。

都議会のドン内田茂年譜(1939-2022)

12月21日午前7時老衰で死去し、小池知事は「都議会から都政をけん引され、多くの功績を残された。心から謹んでお悔やみ申し上げる」と弔意を示した。


民意を反映した良い青島幸男が出て、都行政が機能不全した時、影で都知事として采配してその後30年も悪い都政を生んだ。石原慎太郎・猪瀬・舛添の3知事は役に立たなかった。
「全 ては人事なんだよ。人事を回してポストを融通するとまとまる。」(内田茂)


昭和14年3月15日。千代田区神田淡路町に、額縁職人の子として生まれる。父は引き売り八百屋に転職。


姉がいたが、後ヤクザの妻になる。弟は障害者だったが、後福祉が金になる事を発見する。一面心厚く、恩を忘れない人だった。鳩山一族に泣かされた深谷代議士に恩を感じ、明治以来の地盤の東京から一族を一掃し、党最高顧問として厚遇した。


昭和28年、一ツ橋中学を卒業する。


先生を殴って高校中退し、テキヤに入る。電気店・喫茶店・雀荘で働く。幼馴染みの喫茶店主は、丸でフーテンの寅さんだったという。4人の悪仲間とつるんで毎日を送る。他の3人は本物のヤクザで、噂ではなくて無所属の本物だったという。28才の時転機が到来した。


昭和42年、障害者の弟がローソクの火遊びで家を全焼させた。


家を失った家族は一家離散した。山口組五代目の渡辺芳則は元浅草のテキ屋の親分だった。舎弟分の契りを交わしていた内田は弟の不始末を相談した。参議院議員の安田謙に会って相談しろと紹介してくれた。それは福祉問題で、国が責任をもって引き受ける問題で、福祉施設に入れてくれた。それまでの内田は自己責任で生きて来たので、目から鱗が落ちた。世の中の職業で、税金を喰う職業が一番割が良い。


個人では八方塞がりの問題が政治が解決してくれる。内田は初めて政治に目覚めた。


食えない人は社会が食わす生活保護制度があるが、弟はそういう人なのだが、普通では厄介な手続きがあって拒否される。政治家に頼むと電話一本で閉ざされた門が開くのだよと言われた。さっそく鳩山威一郎の下足番になった。当選請負人と選挙違反にならないノウハウを学んだ。


昭和50年、千代田区議員選挙があった。


区議会選挙に初当選した。ここまでの内田の経歴は不詳である。36才で政治家になった。同級生を次々に当選させて、多数派を作った。


昭和59年、千代田区議会議長になった。


平成元年、千代田区の都議木村茂が区長選挙に出るので、都議選に出て当選する。


平成3年、自民党幹事長小沢一郎が鈴木知事と都議会を分断してくれと内田に相談した。


平成5年3月、池田大作ルノアール事件が勃発する。野中広務がグラビア雑誌を見ていると、秘書が「奴さんの裏のルノアールの絵は億単位ですね」と雑談した。「何んだと。財産目録にのっているか調べろ」と調べると無登録だった。このネタで右翼の個人攻撃が始まった。藤井富雄は稲川会や朝堂院大覚を使って右翼を抑えることにした。次に渡辺芳則に敵の揉み消し依頼までしたというのだ。藤井は内田と渡辺が縁故があるのに気がついたからだという。財務省は脱税で告発し、逮捕寸前だったが、内田は小沢一郎に貸しは返してと言って、告発は取り消された。先生は守られた。驚いた藤井は「内田さん」ということになって自分の後継者にした。議会の自民票に公明票を握って、ドンになった瞬間であった。


平成7年、青島幸男が都知事に当選した。しかし都政には無関心で、万博反対で当選すればよかっただけだ。都庁は混乱して、一切は内田の決裁になった。


都庁幹部が料亭で青島と内田を会わせた。青島は実家は日本橋の弁当屋で、商売の一切を番頭任せにして、自分は道楽一代に生きた人だったと、意味深な話をした。内田は都庁の番頭だから万事差配してください。私は都庁の主人だが、番頭さんのすることは一切文句は言いませんと確約した。三者は手打ち式をした。「あんじょう頼んまっせ」。


平成11年、石原慎太郎が都知事に当選した。副知事に浜渦武生が就任して、公共事業の仕切りに口を挟むようになった。内田は公然と敵意をむき出しにして、石原を干した。週に一回しか都庁に出勤しなくなった。


平成17年、94回衆議院議員選挙があったが、三代続く東京の選挙区から鳩山邦夫は出馬出来なくて、母の実家ブリジストンの工場のある久留米から出馬した。鳩山邦夫も内田から干されたのだった。


平成23年、都議会議員選挙があった。7月1日都議会議員樺山卓司が自殺した。


樺山卓司の実家は樺山料理学園を経営していた。先祖は明治の元勲樺山資紀伯爵で、その息子は樺山愛輔、その娘が白洲正子という名門一族だった。樺山卓司と内田茂とが犬猿の仲で、都議会で大変なイジメをされていて、ついに自殺までした。ヤクザ上がりと華族の出が衝突したらしい。「内田さんを許さない。人間性がひとかけらもない。来世で必ず報復します。御覚悟。自民党の皆さん。旧い自民党を破壊して下さい。」(遺書)


平成24年、石原引退し、猪瀬直樹が都知事になる。


平成25年、都議会選挙で、自民党が与党になるも、反石原・反猪瀬であった。


12月24日の都議会で、猪瀬が徳洲会から五千万円の政治資金をもらったことが発覚して辞任する。


平成26年、舛添要一が都知事に当選する。内田のロボットになりきれず、私的コンサートに公用車を使用して辞任する。


平成28年、小池百合子が都知事に当選し、増田実也を支援した内田は幹事長を辞任する。


平成29年、都議会選挙に不出馬を表明し、七期で引退する。


令和4年12月21日午前7時、老衰で死去する。83才。36才まで何をしていたか不明の人物というのが凄い。来世で死人の先輩樺山卓司が待っていて、新人の内田茂は覚悟しているのだろうかが、気になる。最も唯物論者は来世を認めないから、二人は会わないか。