続パスカルの葦笛のブログ

FMラジオやテレビやCDのクラシック音楽の放送批評に特化したブログです。

人生に勝敗はあったが敗北の連続だった・西部邁年譜(1939-2018)1

昭和14年(1938)3月15日、北海道山越郡長万部町に生まれる。
 コメディアン由利徹の有名なギャグ「オシャマンベ」で、人口より熊の数の方が多いという不毛の地だったことが、第一の劣等感(田舎者)だった。父は浄土真宗の僧侶の子だった。つまり最低度のインテリに属したことが有利でもあり第二の劣等感(大衆だったがエリート意識を持った)でもあった。18才まで重度の吃音(どもり)であったがのが第三の劣等感であった。ハリウッドスターのブルース・ウィルスが吃音であったが、学校演劇でセリフを言うと滑らかに発音できたので、演劇にのめり込んだ。西部も小中と吃音でいじめられたが、学業優秀で百姓どもの子弟のいじめを跳ね除けた。自分の方が偉いというエリート意識で吃音を克服した。優越者と愚民大衆の構図が出来た。


昭和18年(1943)4才の時に厚別村(札幌の隣接村)に引っ越した。父が地元の農協に就職した。このまま片田舎に育ったら田舎者に過ぎなかったが、札幌は刺激的なものがあった。子供の頃にマッチで火遊びをして障子に燃え移って火事になりそうだった。祖母が気が付いて「この子は恐ろしい子になる」と囁いた。生涯の扇動家の素質を見抜いた最初の人だった。


昭和20年(1945)敗戦。アメリカ空軍の襲撃を実地体験し、潜在意識に反米があった。


昭和22年(1947)この頃、父が帯広に転勤した。小学校でクラスで一番の成績だった。


昭和27年(1952)小学校を卒業し、総代になる。粕中学に進学する。高校入試の模擬試験で、北海道一番になる。旧制一中の後塵である札幌南高等学校に合格する。ゾルゲ裁判の裁判長は先輩で、北海道一番の進学校であった。


昭和32年(1957)高校を卒業し、東大を受験するが浪人となる。兄が北海道大学に進学していた。同級生に唐牛健太郎がいた。唐牛は東京にアルバイトに出たが、森田実の砂川闘争に参加した。森田から北大に戻って学生組織を作って委員長に選出されて上京しろと命令された。


昭和33年(1958)一浪で東京大学に合格する。5月自治会議室を訪れて学生運動をやりたいと相談する。ブンドのメンバーと知り合う。駒場寮で清水丈夫(中核派議長)と知り合う。「同年6月、和歌山の被差別部落に入って子供に勉強を教える。」(ウィキペデア)別文献では、子供らにアイスキャンデーを買ってやるが拒絶されたとある。一般読者は火炎瓶闘争や山村工作隊に参加した文脈で理解するが、六全協(1956)で党の武力闘争は放棄された後で、1958年ではありえないことになっている。俳優の芦屋雁之助さんは本名西部清で、西部姓は西に多いらしい。また僧侶として有名らしい西部文浄は大谷大学卒の人で親戚の可能性がある。和歌山は浄土真宗の僧侶の祖父の故郷であったのではないか。東大に合格した高揚感で、故郷を追われた祖父の代わりに故郷に錦を飾った。勉強して俺のような立派な人になってくれと鼓舞した気になった。相手は食いぱくれて夜逃げした組が何だと反発した、という話なのだろう。
 12月、ブンドが結成された。島成郎、唐牛健太郎、香山健一、北小路敏、清水丈夫、西部邁が参加した。


昭和34年(1959)教養学部の自治会で選挙があった。ブンドだけでは当選する数がない。少数派が勝利するには投票を不正するしかない。そこで投票用紙を不正投票して委員長に当選した。ラスコリーニコフの目的は手段を正当化するということが実地で行われた。左翼運動の毒が回り始めた。
 この時新入生の田中英道が西部を見ていた。西部のアジを聞いていた。西部はブンドの理論であった永久批判論を展開していた。共産党という左翼の権威も否定し、全ての権威を批判するのだった。フランクフルト研究所の批判理論で、アメリカ経由で日本に紹介されていた。批評するという行為が一番重要である。マルクスは革命の主体が労働者であったが、資本主義が成熟して労働者が革命を起こすことになっていたが、そうならなかった。そこでフランクフルト学派のルカーチが、革命は労働者が起こさなくても良い、その代わりに一般市民やインテリや学生が実践したらいいと主張した。彼らを左翼化したらいい。マルクスの疎外論が有効である。マルクスとフロイドが有効である。貧困とノイローゼが人間を否定するという理論構成をした。1968年パリで5月革命があったが、その学生運動を見ていると、ブンドの理論だと気がついた。スランスでも新左翼にはフランクフルト学派は人気であり、永久批判論を展開していた。全ての権威を否定する。西部はともかく国会にデモを繰り出すのだと学生を扇動していた。ともかく突っ込めとアジっていた。そう扇動されると、デモをすればいい気になった。「後は、どうにでもなれ」と思うようになった。その勢いで6月15日に、駒場の校門を出て国会に進行した。整然と行進するデモが、西部に先導されたデモ隊に吸収されて、国会の閉鎖された門に突撃した。学生デモの数など高が知れた数だが、後ろの労働者のデモが後押しになって前に出た。樺美智子の死は今思うとソウルのハロウインの大衆集合ではなかったか。
 という指摘はあながち強引でもない。西部はネオコンの父クリストルをガリ版で読んでいる。60年安保でクリストルが輸入されていた。ネオコンの故郷はトロツキーだといわれているが、ブンドでは歓迎された思想家だった。西部ネオコン説は有りだ。
 10月に日比谷野外音楽堂で突然演説を命じられた。アジると朗々としゃべり出した。吃音は完全に克服していた。11月、清水幾太郎に電話で依頼して講演してもらう。評判が良かった。


昭和35年(1960)1月16日、岸信介が羽田から渡米する時、反対デモを指令した。西部は逮捕された。4月26日、駒場で国会デモを組織する。決議の投票を行い、多数派になったら同意して行動を共にすることにした。賛成の投票用紙を捏造して絶対多数を作った。実質多数派の日共の反感を買う。(後これが遠因で中沢新一の件でしっぺ返しを受ける。)6月15日にも西部は逮捕された。6月15日、ブンドの主導で国会デモを呼び掛けた。この時樺美智子が死んだ。7月3日、大会の席上で西部が逮捕された。東京拘置所に収監された。平沢定通と誘拐犯の木山茂久と同室となった。11月まで収監された。


昭和36年(1961)3月、左翼運動から足を洗う決心をする。裁判を続行する。


昭和37年(1962)3月、青木正彦が卒業し、大学院に進んだ。近代経済学に転向した。


昭和39年(1963)3月、西部は東京大学経済学部を卒業する。ブンドの仲間の青木正彦が大学院に進むことを勧誘した。鍛冶元郎が拘束が緩いというので師事する。青木は大学院を卒業して、アメリカ留学をした。数理経済学を専攻する。数学で経済学の応用問題の解法を解いて、宇沢弘文に評価される。


昭和42年(1967)、国会乱入デモの裁判が執行猶予で結審した。犯罪者の身分が解けて公務員になれる資格が取れた。


昭和45年(1970)4月、横浜国大助教授(31才)に就任する。西部がいうほどの波乱万丈ではなく、ストレートな出世コースを歩いていた。むしろ早い出世であろう。


昭和46年(1971)、『朝日ジャーナル』に書いたカルブレイス論を清水幾太郎が読んで電話をくれ、会う。「君は俺の所に来る左翼崩れ(香山健一)と違うね」と言われた。香山は自ら踏み絵を踏んで精神の離陸をはたしたことから比べると平坦な道ですらあった。


昭和48年(1973)3月、横浜国大助教授を辞した。4月から、内田忠夫の推挙で東大教養学部助教授に就任した。むしろ早い出世だろう。内田忠夫に日本評論社に連れて行かれ、『経済セミナー』編集長の森田実に紹介される。「噂は聞いているよ。優秀なんだってね」と買い被られる。「面倒見てよ」と内田忠夫にいわれて、『経済倫理学序説』が連載された。


昭和50年(1975)、36才になった西部は処女作『ソシオ・エコノミクス』を上梓して注目された。ケインズとウェブレンを話題にして、アメリカ経済学の中心である市場主義の経済学を批判した。そして一家してアメリカに留学することになった。