続パスカルの葦笛のブログ

FMラジオやテレビやCDのクラシック音楽の放送批評に特化したブログです。

人生に勝敗はあったが敗北の連続だった・西部邁年譜(1939-2018)2

昭和52年(1977)、アメリカのカルフォルニア大学に二年間留学したが、その活動はよくは知られていないまま、日本に帰国した。青木正彦は恩師チップマンに出会い、その縁でアメリカの学界で地位と名声を築いたが、西部はその甲斐なく帰国した。数年低迷期間を経ることになる。


昭和58年(1983)44才の西部は『経済セミナー』に連載した論文をまとめて『経済倫理学序説』として出版した。はからずも評判を呼び吉野作造賞を受賞した。経済学を数式を使って説明する経済学者はいたが、社会思想で経済学を論じた経済学者はいなかった。そういうわけで論壇の寵児の出現となり、以後200冊を超える著作で華々しく活動することになった。


昭和45年(1984)、友人で同志の唐牛健太郎が急逝した。彼の失敗は大学の権威の外に活動の場を広げたことだった。当時のフィクサー田中清玄に私叙していたが、長寿さえまっとうしたら、それなりにフィクサーになっていたのかも知れない。
 さて余談だが、東大時代の武勇伝を軽薄にも開陳したために、思いもよらない被害を得る羽目になった。20年も前の若気の至りだったが、相手はそう思っていなかったらしい。教養学部の選挙を不正投票して、ブンドから委員長を当選させたのだが、それで敗れた一派が釈然としなかったのだが、20年後に真実が明らかにされた。それで相当の地位に出世した人物に復讐心が燃えた。機関紙に不正選挙違反を非難する記事が連載され、子供たちが小学校の教師からいじめられることになった。かつての敗者は相当の権力者に伸し上がっていた。


昭和61年(1986)47才で教養学部教授に昇進する。結構早い昇進だろう。東大の先輩で贔屓にしてくれた内田忠夫が63才で没した。勲三等を叙勲した。


昭和63年(1988)、教養学部の新任教授の選考会の担当者になった。中沢新一に決定されたが、後は黙認されることになっていたが、今回は教授会の投票ということになり、見田宗介ら3人が反対票を投じた。つまり20年前の自治会の委員長選挙の不正選挙の復讐となった。2年前の矮小な事件は過去になってなくて、現在形だったのである。見田宗介を動かせる幹部の指示があった。愕然とした西部は東大教授を続行することに、暗澹たる思いにさせた。「人生に勝負はあったが、敗北の連続だった」思いがして、東大教授を辞任する決心をさせた。彼らは不正選挙の雪辱を晴らし留飲を下げたのだった。西部は意外に小心だった。


平成6年(1994)54才の西部は『表現者』を発刊する。


平成8年(1996)56才。12月教科書を「作る会」が発足し、参加した。西部は常に足を引っ張った。自分がトップになりたかった。(西尾幹二)


平成13年(2001)61才。船橋市立西図書館で蔵書破棄事件が起こる。西部や渡部昇一の本が含まれていた。「作る会」で内紛が起こる。西部と八木が結託した。(西尾)
 この頃東大の同窓会に出席すると、酔った同級生が「おまえの命令でデモをしたのが出世のキズになって、思うほど出世しなかった。おまえの責任だ」となじられる。
 川端康成の新年会で、共産党に入れと林房雄に勧誘されてえらい目にあったと高見順がくだを巻いた。「おれはおまえに声をかけなかった」「川端さん、どうなの」「そりゃあ、責任はあるだろうね」。


平成14年(2002)62才。「作る会」から西部と小林よしのりが脱会する。協力的だった小林よしのりが西尾を「アメリカべったりのポチ保守」といった漫画で揶揄した。


平成17年(2005)、小泉首相の郵政民営化選挙があった。反小泉の郵政官僚の議員の夫人まで小泉支持をした。売れっ子政治評論家になっていた森田実は、郵政民営化反対を支持したら、テレビからパタっと消えてしまった。島田紳助の焼却場廃止の陳情を実現できないほど無能政治家なのだが、姑息な能力は抜群だった。


平成18年(2006)66才。「作る会」を八木脱会する。新理事を入れ、西尾は事務局長を更迭して対立する。日本会議が支配しようとしていた。この対立を克服できなかった。さらに八木と藤岡信勝がどろ試合を始めた。原因は安倍晋三だった。(西尾)
伊藤貫によると日本会議の田久保はアメリカの駒なのが分からないほど純情だった。


平成25年(2013)、73才。西部は喉頭がんを患う。


平成26年(2014)74才。西部の妻死亡する。「もう生きていても仕方ないように思う」(西部)脳梗塞とガンを患い、体調が悪いとこぼしていた。(田原総一朗)


平成27年(2015)75才。親友の青木昌彦(77)が死んだ。アメリカの代理人として日本と中国をまたにかけて、経済政策を助言した。中国経済の成功の恩人として尊敬されたが、それはアメリカの目的でもあった。世界の工場を考え出した。


平成28年(2016)76才。1月10日ユーチュウブに出演して世界情勢の解説をする。ブッシュがイラクのオイルをメジャーが欲したので、イラク攻撃した。アサドを打倒するとプーチン打倒になるのでISに攻撃させて大量難民を作出してヨーロッパに襲寄せる。ロシアのオイルをグローバリズムにのせるためにウクライナを攻撃させて、プーチンを撃つ。
 テレビで発言している様子を見ていると、ブンドで活動していたころとはまったく逆の方向のことを言っていたものです。「なんとまあ」と悲しい気持ちになりました。転向し、若い頃やっていた運動とはひっくり返ったことを今やっている。そのことについてどこかで納得がいかず、苦しんでいたんじゃないですか。だから最終的に、ああいう形で責任を取ったのだと思います。(清水丈夫中核派議長)


平成28年(2018)1月21日、78才。玉川に入水自殺する。二人のテレビマンの自殺ほう助があり、逮捕された。二人はロープ、重り、重り用ベルト、懐中電灯を用意した。自殺する日時、場所、方法を具体的に話し、打ち合わせた。
 江藤淳の自殺方法といい、西部進の自殺方法といい日本人の美学からかけ離れていることおびただしいことに恐れ入る。マニアック過ぎる。もっと単刀直入に単純に死んでもいいのではないか。それこそアバンギャルドではなく保守的に死んで欲しかった。それこそ保守の真贋だろう。


2月10日、田中英道が西部を語った。
 西部が安保闘争で何をしたかというと、国会突撃と言っただけだった。国会に入って何をするか、とは言わない。ともかく突っ込め、と言う。その先には何もない。何も言わない。批判ばかりして何もない。レーニンですら革命の先にプロレタリア国家のビジョンがあった。批判理論は何もなくてもいい理論である。破壊することが目的論である。それから西部には日本人論がなかった。(西欧的)人間論しかなかった。あの人は平気でジャップというのだ。西部は日本人をジャップと呼ぶのだ。何で自分も日本人なのにジャップと蔑視語を使うのか違和感があった。チャンネル桜で同席した時、カラオケを同伴した。奥さんの看護で大変だとこぼす。これが彼のモチベーションなのだと感じた。亡くなった後、俺はこれで終わりと言い出した。生活者としての自分が先に立つと、彼の自殺が出てくる。それはまた自分をジャップと呼んだことへの自殺ではなかったか。アメリカに従属している日本ばかり言う。日本は従属していない。西部は日本が分からないで死んだ。ジャップとして死んだ。明治以降が日本だと勘違いしている近代主義者の保守の欠点である。明治以前の日本を肯定しないでどうする。近代だけが日本だという近代主義は危ない。