続パスカルの葦笛のブログ

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250万部のベストセラー加藤広『信長の棺』と欠陥小説

織田信長の首がない。本能寺の変の永遠の謎に、解答を与えたということで話題が沸騰した。それで250万部の驚異の売り上げを記録した。


昨年のNHK大河ドラマの『鎌倉殿の十三人』では、しょっちゅう敵将の首が出てくる。源頼朝が敵の首を見て安心する。間違いなく敵の首だと証明されて終わる。首で証明されない限り、敵は生きている。ここにそういうこだわりがある。明智光秀も信長の首にこだわった。


本能寺の近所に南蛮寺跡の石碑があって、調べると150~200メートルの距離である。加藤広は本能寺と南蛮寺の間に地下通路があって、信長が地下通路で死んだなら、信長の死体は発見されないだろうと考えた。


羽柴秀吉は信長の命令で、本能寺が襲撃されたら逃れるのに隣にあった南蛮寺との間に地下通路を掘らせた。命ぜられた秀吉が、後で地下通路を埋めて通れないようにした。


秀吉には前科があった。信長の比叡山延暦寺攻撃の時、延暦寺に信長の攻撃があるから逃げろと密告をした。逃亡の通路を建設しておき、後で通路を塞いで逃げられないようにした。面従腹背の秀吉の勝だ。


天正10年、本能寺に滞在した信長を、明智光秀が襲撃した。小姓森蘭丸ら警備隊に案内されて地下通路に使用して隣の南蛮寺に逃走することになった。これで安心と考えた信長は愕然とした。途中で地下通路は土砂で埋められて通過出来なかった。かくして信長は地下通路で死ぬしかなかった。本能寺に信長の死体が発見出来なかった理屈が成立した。


この見事な屁理屈が、『信長の棺』が250万部も売れた秘訣であった。


                     *


ところで『信長の棺』には決定的な欠陥があった。秀吉が天下人になってから、京都に都市計画を計って区画整理をしたことだ。天正19年それが行われた。お寺の移転計画があった。昔の住所と今の住所と相違することになった。


加藤広は迂闊にもこの点の思慮が足りなかった。


本能寺の歴史               南蛮寺の歴史
乱世の大火で焼失し堺に移転。       永禄11年(1568)四条坊門に建設。


                     天正4年(1576)に再建。
                     四条坊門姥柳町。
天文14年(1545)帰京し再建する。
四条坊門小路。


天正10年(1582)本能寺の変。
焼失し再建。
                                                                         天正15年(1587)秀吉バテレン禁止令。
                    南蛮寺破壊。空き地。


        天正19年(1591)秀吉京都都市計画。


中京区下本能寺町に移転する。      中京区蛸薬師通室町西入北側。(空き地)
(蛸薬師辺)


*天正19年(1591)の秀吉の京都都市計画で、蛸薬師辺の南蛮寺跡地の隣に本能寺が引っ越して来た。


*本能寺の変があった時、本能寺と南蛮寺は隣同士ではなかった。


*秀吉の都市計画の後、隣同士になった。


加藤広は現在の本能寺と南蛮寺の隣関係を見て、地下道を敷設して信長が地下道を逃げる途中に死んだら、信長の死体は発見されなかったと推理した。しかし当時は隣同士ではなかったのだ。


南蛮寺の隣に本能寺が引っ越して来たことで、加藤広の迷走を生んだ。時代考証は恐ろしい。