2西村賢太で田中英光と広西元信は早大同級生と判明
西村賢太は女に手を出さず、ひたすら稼いで金は学問研究の文献収集に費やした。同棲した女性への暴力は創作世界の虚構である。痴情小説はフィクションだ。
そのことを証明するのが『田中英光私研究』(8冊、1994-1996年)ではなかったか。私家版なので、生憎入手困難な文献である。しかし目録は公開されているので、全容は伺い知られる。(これこそ公刊されるべき本ですよ。)
田中英光は三流小説家で詳細な経歴に関心もない。まして広西元信なる人物に至っては名前すら知る由もない。しかし空手をやる人には大変な大家で、『資本論の誤訳』という世にも不思議な本の著者として知る人は知っている不思議な人物である。
西村賢太は『田中英光私研究』6号で、田中英光研究資料として広西元信を収集している。
O「英光君のこと」広西元信(文献再録)
O「広西元信氏談」(聞き書き田中英光)
二編を収集している。これで二人は関係者であることは知られるのである。
そこで二人の経歴について触れることにしたい。
田中英光(1913-1947) 広西元信(1913-1999)
大正2年(1913)東京生まれ。 大正2年(1913)京都生まれ。
鎌倉に移る。
湘南中学。 宮津中学卒。
早大第二高等学院卒。 昭和5年(1930)早大第二高等学院卒。
昭和10年(1935)早大卒。横浜ゴム入社。
昭和11年(1936)早大文学部露文科卒。
昭和15年(1940) 昭和15年(1940)兵役。
横浜ゴム本社臨時移動。三鷹に太宰治訪問。昭和17年(1942)岩淵辰雄門下生に。
昭和19年(1944)京城から静岡に。
昭和21年(1946)専修大学空手部師範。
雑誌『世界文化』編集部員になる。草野心平・
田中英光・対馬忠行と交際す。
昭和22年(1947)新宿に住む。
昭和23年(1948)太宰自殺する。
昭和24年(1949)太宰墓前自殺。
昭和41年(1966)『資本論の誤訳』出版。
平成11年(1999)死去する。86才。
2人は同じ年生まれだった。第二高等学院に入学し、同級生となった。大学は広西元信が一年落第したようだ。つまり高校・大学と同級生であった。
戦後、広西元信は雑誌『世界文化』の編集部員になった。これは戦前京大の久野収などが発行した雑誌とは無関係である。
現在もある世界文化社のことで、1946年鈴木郁三が『子供マンガ新聞』を発行して大成功した。訪問販売による書籍や全集を出版して利益をあげた。1958年には『家庭画報』が発刊された。
そこから出た雑誌が『世界文化』で、広西元信は静岡に疎開していた同級生田中英光に執筆依頼をした。またトロツキストの対馬忠行と知り合い、マルクス主義にも関心を持ち、そんな関係でこぶし書房とも関係が出来たのであろう。
こうして見ると二人は戦後はわずか2年の交際にとどまったが、田中英光文学との交渉はあった。こういうどうでもよい些細な事実の発見に快楽を感じる文献学者西村賢太は、女を必要としなかったし、生身の女以上の痴書の快楽に逸脱していた男であった。そうすることで精神が異常をきたすのを防いでくれた安全弁だった。事実に真実が付着していて、この世界はかろうじて真理の体系を維持していたからだ。真理発見の操作に従事することで、発狂を免れた。増々不可解な女を遠ざけて、文献の世界に沈潜したことだろう。