続パスカルの葦笛のブログ

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谷津矢車『雲州下屋敷の幽霊』(2)殿様と奇人天愚孔平

雲州藩こと松江藩の6代藩主松平宗行は享保14年に生まれ、2年後の享保16年に父の死去で藩主になった。家老たちの合議で藩政がおこなわれたのはやむおえなかったが、摂政を置かなかったのが後の災いになったようだ。


元服した3年後の延享元年、16才の藩主に藩医の息子の12才の天愚孔平が御伽衆(遊び役)に命じられた。本名は萩原喜内で、天愚孔平は後の号だ。殿様と太鼓持ちの長い腐れ縁の始まりであった。


寛延元年、江戸藩邸に荻生徂徠の高弟宇佐美恵助が藩儒になったので、学問所で儒学の弟子になった。
「儒学の授業はつまらんな。何か面白いことはないか」
「そうですね。最近歌舞伎の富本豊太夫が富本節を創設して家元になりました」
「そう。それで」
「富本豊太夫は安来の産です」
「それなら支援してやろうか」
「喜びますよ。安来はドジョウの名産地です。お食べになりました」
「どんなものだ」
「性が付くそうで。滋養強壮剤です。駒形が江戸では有名です」
「ドジョウ上等だね」
その会話を聞いていた宇佐美先生が割り込んできた。三人で駒形にドジョウを食いに行った。それが終わると、中村座に富本豊太夫を訪れた。
「いたみ入ります」
 と平身低頭したのが豊太夫だ。
「あなた安来の生まれでしょ。江戸に安来節を紹介しなければいけませんよ」
「それはなんだ」
「ドジョウを取る姿の百姓踊りです。郷土の愛すべき民謡です」
 と、富本豊太夫が三味線を弾き、天愚孔平がドジョウすくいを踊り始めた。
「秀逸」
「だめですよ。殿様。あなたも踊らなきゃあ」
 孔平は殿様の手を取った。
 こうして殿様に世間の知恵を見聞させたのが天愚孔平だった。


宝暦5年、出雲に帰国する旅に、孔平も同行を命じられた。近江に来た。
「おまえに近江の一之宮の多賀神社に参拝を命じる。余の代理じゃ。それで『孔平参上』の紙札を貼り付けて来い」
「それ何です」
「おまえが神社仏閣を参拝した証拠だ。後で家来に見に行かせるからな」
「そんなら。家来に命じなさいよ」
 ということで、孔平は紙札『孔平参上』を神社に貼った。
「余はそちに、神社仏閣千回参拝を命じる。その証拠に紙札を貼れよ。これを『千社札』と命名する」
 これが『千社札』の語源であった。
翌年、息子不昧公の代理で孔平は伊勢参りをした。べたべたと伊勢神宮に『孔平参上』の千社札が貼られていたはずだが、式年遷宮の時剝がされたのだろう。江戸周辺では評判となり市民は争って神社仏閣を参拝しては千社札を貼り回った。参拝客が金を落とすので、大喜びだった。


宝暦10年、孔平は父の藩医の碌を継いで、正式の藩士になった。松江藩は財政破綻し、「雲州様滅亡」と噂されていた。財政改革や殖産振興をやったが良い結果が出なかった。遂に明和4年失意のうちに息子不昧公に家督を譲った。江戸の下屋敷で隠居生活をすることになった。その悪い噂は谷津矢車「雲州下屋敷の幽霊」の描くことになる。


だが雲州下屋敷の御隠居様は太鼓持ち天愚孔平に支えられて至って愉快な仲間たちに恵まれて引退生活をエンジョイしたという説もあるのである。


暇があれば孔平を召して、
「孔平よ。只の人になるよなら奇人になれ」
 と天愚孔平をけしかけたという。増々孔平の奇行変人ぶりに磨きがかかった。奇人こそ尊いという時代であった。寛政三奇人は林子平・高山彦九郎・蒲生君平といった当代のプー太郎が選ばれた。
「皆友達なんでしょう。奴ら何をして食ってるんでしょうね」
「裏で泣いているのさ。そこをへらへらと笑って誤魔化せる連中が、何かを持っている」
「左様ですかね」
「余だって泣いているよ」
「殿」
「何だ」
「面白い力士が登場ですよ。安来生まれです」
「そんなら支援しようか」
「すげえ背の高い男なんです。江戸で独活の大木だと評判です。でもからきし弱いんです」
「人間なんて一点長所があれば見っけもんだよ」
「松江藩お抱え力士という称号を与えましょうよ」
「それはいい」
 ということで大名がお抱え力士を持つ最初になった。その噂が京の都に轟いた。後桜町天皇が天覧式をもようした。陛下の前で裸で無礼ではないかということになったが、神代の時代に天覧試合があったいう故事があり、神事だから無礼講になった。天子様から冠の緒二本を拝領したというので、江戸に帰ると下屋敷に招かれた。
「古来より大男を子分にするのは高貴なお方の名誉なんだよ」
「そうすね」
「こんな大男は不世出だ.。珍だね。等身大の肖像画を描いて永久保存だな。記念の漢文碑を書きなさい」
 計ってみると、釈迦ケ嶽は2メートル27センチあったという。


江戸の梁山泊と呼ばれた文化サロンが、築地にあった仙台藩医工藤平助の屋敷だった。大名はいうに及ばず、侠客や歌舞伎役者や芸者や幇間、蘭学者からオランダ商館のオランダ人まで集まる家であった。二階を増築して、サワラの厚板で風呂を造り、風呂の湯は下から運んで、風呂に浸かりながら庭を見下ろすという雅趣豊かな趣向であった。
 ここには賀茂真淵や高山彦九郎や大槻玄沢などが訪れた。


建築の落成式の時、老中の松平康福は大桜を寄付したという名庭園が見ものだった。
「おまえも同行しなさい」
「ははっ。で御隠居様はどんな桜を寄付したんですか」
「余は浅黄桜を送った。珍品だぞ。全国から桜の名品を取り寄せて、日本中の桜が植わっておるのだ」
 この時は孔平の他に初代中村富十郎を誘った。多分二階の風呂場で孔平は殿様の背中を流す三助役を命じられたようだ。
「中村富十郎丈のお背中を流せるなんで、恐悦至極でございます」
 歌舞伎役者は江戸のアイドルだった。
「ふふ。たわけめ」
「それに工藤平助めは、手料理が得意で、なかなかの料理人とか」
「中国の最高の接待は皇帝の手料理の接待というではないか」
「書物で読んだ記憶があります」
 山海珍味が取り揃えられて、至れり尽くせりの料理が振る舞われる。八百善より高級だとの噂だった。こうして歓待して舶来品の文物を売って莫大な利益をあげていたらしい。
「江戸では唯一のベッドがあり、オランダ商館のオランダ人が常宿にしているとか」
「博識だな」
「私めも医者の端くれ。蘭学医との交際もあります。皆友人です」
 ご隠居様は帰る時必ず七両を置いて帰るのだった。
 工藤平助は蝦夷地にロシア人が南下して日本の脅威になると『赤蝦夷風説考』を著し警世家になるが、この頃はまだそこまではなっていなかった。


息子の松平不味公は後大崎下屋敷を求め、隠居して茶の湯三昧で名品を集め、天井をガラス張りにして金魚を泳がせた。この辺は父の狂奇趣味の噂に重なっている。2つの下屋敷伝説が1つの伝説になったのだ。


安永七年不昧公は父の五十歳祝賀に大亀石像を造り孔平に漢文を草させた。
「なんだか生前に墓を作ると早く死ぬようでいかんな」
「そうですか。お好きに」
 といことで、生前の建設は中止になった。それから四年後の天明2年、54才で死去し、大亀石像は建設された。これが小泉八雲の文章になった。藩改革に挫折して失意で死んだ藩主が恨んで、夜な夜な市中を歩き出して人を喰った大亀伝説である。しかし地元は藩主の隠居した後の豊かな幸福な余生を知らなかった。怨み骨髄で死んだと思い込みしていた。そういう噂が狂気の藩主の下屋敷の罪状と結びついた。