続パスカルの葦笛のブログ

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宇野浩二『枯木のある風景』は芭蕉の枯淡かシュールレアリスムか

           小出楢重『枯木のある風景』


宇野浩二は昭和二年精神病を患い、退院後の第一作として『枯木のある風景』を発表して、見事な返り咲きをした。


小説は洋画家小出楢重がモデルで、同業者の友人真鍋克之との成り行きを描いた。


小出楢重は芦屋にアトリエがあり、夫人が注文を取り客の好む売り絵を描いて豊かな生活をしていた。その間に小出楢重の好みの絵を描いて、芸術追及を黙認している。つまり営業と芸術の相克がテーマなのだ。世間的には目出度し目出度しの話である。最後の一句、友人真鍋克之は「しかし『枯れ木のある風景』にも異常な敬意をはらったが、『裸婦写生図』の方により多くの敬意をはらった。」で終わる。


つまり職業で売り絵を描いた方がずば抜けていると評価するのである。さすがプロの腕というわけだ。こんな結論を出したら小説は破綻する。小説は破綻しているのだ。


売り絵を製作しながら個人的に好きな芭蕉の枯淡の境地を描いた『枯木のある風景』だからこそ尊いという結論になって小説が結ぶ、のではないか。そういう解説もある。


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講談社文芸文庫では、水上勉が解説を書いている。水上勉は問題の『枯木のある風景』を小出楢重の作品まで及んで吟味してはいない。あくまで小説を読んで作品論としている。そうすると小出楢重の『枯木のある風景』と宇野浩二の『枯木のある風景』との間に矛盾が生じるのだ。絵と小説に矛盾が出てくる。


小出楢重の実際に描いた『枯れ木のある風景』を見ると、数本の立木を切り倒した枯れ木が横たわり、高圧線に男が引っ掛かっている。お世辞にも芭蕉の枯淡の境地もない。むしろシュールレアリズムかキュービズムのような油絵だ。それを考えると、小説のテーマは営業と芸術の相克ではないということになってくる。


ところが、その上の方の電線の一番上の線に、黒い鳥のようなもんが、ちょこりんと止まっているんや
「枯れ枝に鳥がとまり」
「ちがう、それが人間やないか」
「ちょっとまった。高圧線の電線に人がとまったら、人は死んでしまうやないか」


そう会話をしていると、午後四時に小出楢重が死んだという知らせが届く。
宇野浩二は真鍋克之がモデルである島木に、売り絵を描かせる悪妻の圧迫に耐えきれない絶望が表現されているとする。女は男の横暴に耐える忍従こそ女の美学であるというのが宇野浩二と水上勉の本音である。男に強制する女は耐えがたいのである。断固として女の横暴を拒否する。それが拒否できない小出楢重は発狂に到達する前、肉体が衰弱死する。


精神に異常をきたした宇野浩二は、「俺の思考力は俺の舌の三倍の速力をもって走る」といって原稿用紙のマス目に点々を打つばかりであったという。宇野浩二は小出楢重の『枯木のある風景』を見て、精神病院への入院を要する小出楢重の発狂症状を見た。「俺と同じじゃないか」という共感である。シュールレアリズムの絵ではなく、本気で小出楢重のリアルな風景であった。高圧線の男は小出楢重その人だった。宇野浩二は広津和郎に拾われて入院させられたが、小出楢重には広津和郎がいなかった。真鍋克之は小出楢重の精神異常に気付き入院させなかった。原稿用紙に点々しか書かない宇野浩二、高圧線に自分を投影して感電死させる小出楢重、精神異常の発現がありながら、それが読める友人と読めない友人の差でもある。余りに出来過ぎた小出楢重の妻に嫉妬もあったろう。


林武、平山郁夫、岡本太郎、棟方志功、大画家の妻は名プロデューサーでもあったといわれている。製作と販売は夫と妻の二人三脚・分業であった。