続パスカルの葦笛のブログ

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恩師保昌正夫と小説家西村賢太の誕生

国文学者の保昌正夫(1925-2002)が小説家西村賢太(1967-2022)の生みの親であったことは余り知られていない。出産現場に立ち会った朝日書林店主荒川義雄の証言(『本の雑誌』22・6)がなかったら、知ることもなかった。


遺作『雨滴は続く』は、2004年西村賢太37歳の動向を扱った千枚の大作であるが、ここに保昌正夫らしき人物が登場するのだが、本人は2002年に没去しているので登場するわけがないのだ。しかも様々なカモフラージュがされていて保昌正夫という人物から遠ざけられている。


松林という国文学者、当年50歳らしき大学教授で、神田古書会館の古書市に出ると神保町の落日堂の新川の店に寄って、コーヒーの出前をご馳走になって、店主と雑談している。そこへ北町貫多が登場すると、松林は手を挙げて挨拶する。しかし貫多は昵懇の間柄と思っていない。以下6頁にわたる叙述が尽くされる。2年前に死んだ人を敢えて登場させる意図は何か。


松林は田中英光全集に未収の作品の掲載された雑誌を借用させてくれて、『田中英光私研究』に再録した。


また一度は松林が編纂委員か何かに連なっている昭和文学研究会で、彼の原稿を採ってくれたことがあった。(『雨滴は続く』)


これは『昭和文学研究 三十集』(笠間書院)で、西村賢太「研究動向田中英光」であった。(1995年5月)研究は評価された。それで口添えされて、出版社も紹介され『田中英光』一冊の刊行も可能となった。


自身の研究対象である『阿部知二』篇の上梓を控えていた松林は、貫多自身の無謀な懇願を聞き入れて、版元に彼のことを推薦してくれたのである。そして共にその版元に赴き、後日女性の担当者も決まった上で、『田中英光』篇の刊行の企画は正式に通りもしたのである。
(同)


松林の『阿部知二』は、保昌正夫『横光利一』(近代文学叢書・明治書院)のことで、何でこうなるのか不思議である。ここに西村賢太『田中英光』が刊行されるわけで、刊行されたらその業績で国文学者の資格を獲得することになる。その分野の権威筋の庇護を得たことになる。つまり国文学者の出発があったわけである。田中英光は人気作家と言えないこともないので、ラッキーそのものだ。田中英光家とのトラブルがあり、この話がとん挫する。


つまりその件では松林にも甚だの迷惑をかけることになったわけだが…あろうことか後年
にまたぞろ松林に向かってこの話を蒸し返し、今度は田中英光ではなくて、『藤沢清造』書誌の代替案を打診したものだった。(同)


これにも松林は応じてくれて出版社に打診してくれたが、さすがに藤沢清造はマイナーの作家で拒否された。それ以来の再会であった。この時は「けがれなき酒のへど」が『文学界』12月号に転載されたのだが、松林からはこの作品の読後感想が語れなかった。


それもそうだろう。保昌正夫(1925-2002)はもう既に死んでいたからである。『文学界』転載は2004年12月号だった。「墓前生活」が発表された『煉瓦』も2003年7月であった。つまり小説家西村賢太のことは保昌正夫は没後のことで、あずかり知らなかったのである。知っていたのは田中英光研究家であった。「室戸岬」「野狐忌」の二編を読んだのみであった。しかし保昌正夫の『同人誌雑評と『銅鑼』些文』(2001年)に、小説家西村賢太に言及した一文がある。


『田中英光研究』を続けてきた西村賢太氏も同人雑誌で書いてみたら、どうか。


これは『田中英光私研究』に発表された小説「野狐忌」のことで、保昌正夫は朝日書林の荒川義雄に「その小説をすごく褒めたんですよ」という。これを契機に小説家西村賢太が誕生した。田中英光の「野狐」は、ただ懸命に人生を生きぬき、修行しさえすれば、よい作家になれると単純に信じている私に、野狐禅という公案が、「あきらめよ、わが心、けだもの、眠りを眠れ」と話しかけ、肉欲・酒・薬に溺れて破滅する姿が描かれる。しかし最後は師太宰治の墓で「我に良き小説を書かせよ」と最後まで求道を忘れなかったことが知れる。西村賢太は田中英光の墓を訪れて、「我に良き小説を書かせよ」と信仰告白させている。三流作家田中英光に「我に良き小説を書かせよ」と信仰告白させるところに諧謔と真摯な精神がみなぎっている。第三者的には喜劇で二人称では深刻・悲劇である。三流作家にど素人が作家に成りたいと祈る。ここに西村賢太の「野狐忌」は天に抜けた理由がある。ど素人には一流も三流もありはしない。プロの域に届きたい。これは切実である。この切実を西村は書けた、と保昌正夫は読んだ。
 『雨滴は続く』で死んだ保昌正夫を登場させたのは、田中英光研究家としても支援してくれ小説に才能有りと指摘してくれた恩人への感謝の表れであった。よもや芥川賞作家になろうとは夢にも思わなかった。死んだ保昌正夫は驚いているはずである。「あれは放っておくと堕ちるところまで堕ちる」。彼の老婆心が芥川賞作家誕生となった。


付記。『雨滴は続く』の最初のプロットは違っていて、「野狐忌」しか知らない保昌正夫に「けがれなき酒のへど」を読ませて、小説家の成長ぶりを感嘆させたかったのではなかろうか。『文学界』転載は輝かしい勲章ではあった。とうとうプロの小説家と互角になった。「おめでとう」と言わせたかったか。「先生のおかげです」という北町貫多がいた。しかし、待てよ。現代物に無関心な国文学者は読まない。他人の功績に嫉妬する学者世界、当初のお涙頂戴式のプロットは中止して、敢えて無視される呈の方が登場人物は生き生きとする。『文学界』に掲載された小説の感想もなく終わらせた。激賞されたい北町貫多は、内心では『文学界』を話題にして欲しいのだが、話題にならなく終わる。この世は様々な行き違いで成り立っている。貫多と松林とは決して昵懇な間柄ではないと小説で言わせるが、読者はそういうのを昵懇な間柄と言うのだと思う。このズレが小説の巧さである。