続パスカルの葦笛のブログ

FMラジオやテレビやCDのクラシック音楽の放送批評に特化したブログです。

坪内祐三(文芸評論家)年譜ー結構な不幸を淡々と生きて

坪内祐三(1958-2020)文芸評論家。一番似ている存在が十返肇か。目立つことなく存在し続けて一度もスポットライトが当たらないで終わった。しかし年収2000万円で20年続けて大層な収入と言えるだろう。著作は60冊、ベストセラーは一冊もなし。売れていないようでいて、売れている。有名であるようでいて、有名でない。


話は違うが、有名になって高収入で顔が知られないでプライバシーが保てるのは流行歌の作曲家で、ある種理想形である。だから小林亞星以下無理やりテレビ出演して顔を知られたいとなる。なるほど金の次は名誉ということになる。


大学の同級生作家一志治夫が一先世に出て売れて紹介しようかというと、「いや、自分でやれるから大丈夫。全然そんなのはいらない」と言ってのけたという。無名なのにごう慢さが出ている。この人結構不幸なのである。しかしごう慢だから自分が不幸だとは思わない。不幸を不幸と思わないのは特殊才能なのだろう。映画『酒中日記』があり坪内祐三が主演ドキュメンタリーなのだが、どう見てもオーラの片らもない風采の上がらない人物で、坪内祐三以外の出演者が皆主役級であると言う不思議な映画だ。こんな男を主役にして映画を作りたいほどの魅力がある。刺身のツマが坪内祐三なのに主演を演じているという奇妙な映画。出版界の刺身のツマが坪内祐三である。個性強い青魚を食べて、鯛やヒラメに行く前にガリでお口直しをする。考えようによってはガリが主役である。


『坪内祐三年譜』
 年代    年齢             事項
昭和30年      姉坪内貴子生まれる。
昭和33年      5月8日、東京渋谷区本町に坪内祐三生まれる。坪内嘉雄と井上泰
           子の子。井上泰子の名前が示すように、曾祖父井上通泰・祖父井上  
           泰忠の名を継承をしている。東大医学部・東大三井物産で、泰子は 
           女学館。隣家はシャンソン評論家の芦原英了。山の手上流市民。
昭和36年 3歳   世田谷区赤堤に引っ越す。
           弟坪内泰充が生まれる。母系の名前を付ける。井上通泰は森鴎外の              
           友人で柳田国男の兄だった。柳田天才五兄弟と噂された。
昭和40年 7歳   赤堤小学校入学。
           この頃、父は自民党系の音楽団体東京音楽協会の専務理事をする。 
           共産党の歌声運動・労音に対抗して作られた。
昭和46年 13歳  松沢中学校に入学する。
昭和47年 14歳  高学歴の家系だが放任主義らしく、英語が低迷して不振で、柳田国  
           男の息子柳田為正の妻冨美子から英語を習う。
昭和48年 15歳  父坪内嘉雄はダイヤモンド社の社長になる。人員整理を依頼。
昭和49年 16歳  早稲田高等学校に入学する。一説には高等学院は大学付属で、高校  
           は大隈重信家の私的経営で、半分しか進学出来ない。山本監督や築 
           地の卵焼き屋さんもOBで日大に進学した。
昭和52年 18歳  3月、高校を卒業。だが推薦入学と受験に失敗する。エスカレート 
           の意味がなく結構な挫折である。これは親の責任だが、子弟の教育    
           に不熱心だったとしか考えられない。しかしお茶の水の駿台予備校
           に合格する。バカじゃなかった。これで人生の味が出た。
昭和53年 20歳  早稲田大学第一文学部に入学する。表で合格は、田舎の秀才。高校  
           から早稲田に行く意味なし。同人雑誌『マイルストーン』に一志治  
           夫に勧誘される。
昭和54年 21歳  早稲田祭で、雑誌同人は『人生劇場』を上演し人力車夫を演じる。
昭和57年 24歳  就職活動をするが出版関係は合格に至らず、就職留年をする。親の 
           コネという発想がなかったらしい。一面初心で疎い彼の性格が出て
           いる。半面下世話に通じているのである。この矛盾が彼。
昭和58年 25歳  3月大学を卒業する。「1982年の福田恒存論」が卒論。一志治  
           夫が家に遊びに行くと、部屋に『福田恒存全集』が完備されていた  
           という。若くして左傾化しなかった稀な頭脳の持ち主であった。左    
           翼の暗躍は具体的で理想主義の欠片もなく悪烈であったが、暗に父  
           親の影響である。平和な日常の繁栄は父が暗躍して敵に対抗して戦
           っている賜物であったという認識があった。すでに保守。
昭和61年 28歳  大学院修士課程を修了する。英文学だから得手になっていた。
昭和62年 29歳  父のコネで都市出版に入社し、『東京人』編集者となる。大学の斡  
           旋もなく家に引きこもった一年、父親が心配した配慮だったが、こ
           れが将来の彼を切り開いた。東京都の補助金が出た雑誌で、売れる
           のが目的でなく、東京をアッピールするのが目的だった。ピーアー  
           ル雑誌だった。真ッ黒黒の雑誌で、補助金目当てで、お世辞目当て
           に薄い雑誌を出せばいい。補助金の着服目的であった。一気にクオ
           リティの高い高級雑誌にしたのが坪内祐三だった。東京都も大喜び
           だった。東京にも文化があった。
           *坪内祐三は引き籠りで、父親の転機で社会復帰に成功か。
平成2年  34歳  フジテレビの日枝久が鹿内家にクーデターを起こし実権を握ろうと
           した。父坪内嘉雄を訪問して協力を仰いだ。アサヒビールの樋口広
           太郎を紹介した。成功報酬がないところを見ると、水野成夫や鹿内 
           信隆との縁でクーデターには参加しなかったのではないか。財界は
           一枚磐でないのだから、ライブドアの堀江貴文がフィクサーを利用
           したらフジテレビ買収は成功したのだろう。旧い手を使わないのが
           嫌われたのだ。日枝久も堀江貴文も目くそ鼻くそなのだから。正義
           を言わない大人の世界なのだ。下剋上は常識。
平成9年  39歳  4月、処女作『ストリートワイズ』を刊行する。これが早いのか遅  
           いのか。雑文書いて十年、以降目覚しい活躍が広がる。
平成11年 41歳  妻神蔵と別れ、佐久間文子と再婚する。
平成12年 42歳  11月29日、ヤクザと喧嘩して重症、入院する。
平成13年 43歳  1月22日退院する。
           3月、早大講師になる。
           6月、父の事業の不調で赤堤の家競売にされる。父は脅迫容疑で逮
           捕されるが、後に不起訴になる。住んでいた家を売られるというの   
           も、おいそれとない不幸である。
平成16年 46歳  11月、『文学界』12月号で西村賢太『けがれなき酒のへど』を
           見て、4年前の『藤沢清造全集内容見本』パンフレットを思い出  
           す。神保町界隈で個人で全集を刊行する男がパンフレットを配って 
           いるという噂を聞いていた。「あの男じゃないか」と思い出した。
           「おっ、西村賢太の小説だ、と興奮し、すぐに読み、興奮通りの感
           動をおぼえた。」西村賢太はかくして発掘された。 
平成18年 48歳  3月、早大講師辞任する。大学教授という道もなかった。
平成24年 53歳  父坪内嘉雄死ぬ。享年91歳。
平成25年 54歳  『総理大臣になりたい』(講談社)出版す。
           「著者初の語り下し、緊急出版。」
           息子坪内祐三は考える所あって、父の思い出を口述筆記させて、出  
           版した。父を回想する息子の例はなくはないが、そのほとんどは偉     
           大な父と愚息である。この場合は愚父と偉大な息子の例で、ほとん
           ど類例のない種類の出版物である。総会屋・フィクサーなど誰が尊
           敬するだろうか。裏街道の人、ヤクザな父など誰が回想しようか。
           そんな父が坪内祐三はまんざら嫌いではなかった。亡き父への哀慕 
           の情である。彼の代表作であるばかりか、父論の古典。


父坪内嘉雄は東京大学を卒業し、徴兵されて終戦で大尉となった。浪人し、日本メラミンという会社を経営し、財界人の桜田武・小林中・永野重雄・水野成夫らが結成した共同調査会で下働きをするようになった。財界の対共産党対策団体であった。公安から入手した情報で従業員の党員リストを作成して、傘下の企業に排除を促進させた。
 日教組の分裂工作、三井三池争議の鎮圧、民社党の育成のためにサンケイの鹿内信隆から五億を貰って西村栄一に手渡した。(日枝久こんな人に協力仰いだらだめじゃん。)労音がドン・コサック合唱団を呼べばミッチー・ミラー合唱団を呼んだ。流行歌手水原弘を贔屓にした。ナベプロ社長になってくれと要請された。
 長野県財界の大御所信越化学社長小坂徳三郎が政治家になりたというので選挙応援をした。「おれ大臣になりたい。どうすればいい」「一本かかるんじゃない。ケチるとなれんぞ」。五千万が1億になった。長官・長官・大臣になった。「小坂の野郎雑巾がけもしないで大臣かよ」(違う。金出して買ったの。)と田中派分裂は、坪内祐三の父親が原因だった。その裏の裏は福田赳夫が小坂徳三郎を田中派に送った内部分裂のスパイ工作だった。(兄は福田派。)毎晩オールドパー一本飲まなければ眠れなくなった田中角栄。凄まじい権力闘争の中で明け暮れた坪内嘉雄。やがて総理大臣になりたいと誇大妄想を思うようになった。男のロマン。


坪内嘉雄が破滅型の歌手水原弘を贔屓にしたという。坪内嘉雄も破滅型。坪内祐三も破滅型。彼が発見した西村賢太も破滅型。山は高き故に尊ぶべからず、酒場詩人ー吉田類の低山百山を楽しく見てます。


令和元年  60歳
令和2年  61歳  1月13日、心不全で没する。当日中野翠らと相撲見物の予定。


曾祖父井上通泰は常磐会を組織したが、表は山県有朋の歌会だが、その実スパイ工作の特務機関であった。正宗白鳥は大逆事件が常磐会が采配した捏造事件で、それに連座して逮捕される寸前であった。それを取り仕切っていたのが井上通泰で、実兄正宗は温情あふれる恩師として慕った。これに激怒したのが白鳥で糾弾した。「俺は通泰のために逮捕される所だったんだぞ」「信じられない」。兄弟喧嘩となり、傑作『入江のほとり』が書かれ、実兄は阿呆として描かれている。実は兄正宗敦夫は国文学者で藤原啓に備前焼をやれと進めた人だが、英語も知らないのに英語を語る狂人と描いている。兄の国文学を揶揄しているわけで近親憎悪。(兄柳田国男の名声に幻惑した弟松岡静雄は海軍大佐の地位を放棄して言語学者になったが、兄国男は全然弟静雄の言語学を認めなかった。よほど軍人恩給で左うちわの生活に腹が立ったらしい。)実父坪内嘉雄も又権力に奉仕する秘密諜報部員だった。因果の極みだろう。正宗白鳥の実家も華麗なる一族で、日本興業銀行頭取まで排出している。天才一族なのだ。坪内祐三に『入江のほとり』『楡家の人びと』がないのが惜しい。


               坪内祐三の家系図