続パスカルの葦笛のブログ

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不運な指揮者ヘルベルト・ケーゲル(1920-1990)

東ドイツの名指揮者ヘルベルト・ケーゲル(1920-1990)ほど不運な指揮者はいないだろう。人生には不運続きということがあるが、ケーゲルの不運もそうだった。不運に打ち勝つには奇をてらうしかないのだろう。


1979年、ケーゲルを日本に招聘したのは民音だという説がある。


O民音の招きで来日した。(青沢唯夫)


民音には知恵者がいることになる。『マーラーのすべて』(音楽の友別冊1987年)によると、この年1979年12月にケーゲルによるマーラー交響曲4番のレコードが発売された。もちろん我が国で初めての紹介である。知られざる天才がいるということだ。この件では12月東京フィルで年末恒例の第九の指揮者に招かれたが、特別演奏会で文献には残らなかった。しかし大阪フィルの方の文献には、


12月15~21日、ベートーベン・エグモント序曲、交響曲9番。ケーゲル指揮大阪フィル。


という記録がある。
 もっと面白いのは、この年ケーゲルは二度も来日しているらしいのである。12月に第九の指揮に来日しているのだが、6月にも来日していてN響で指揮するためのオーデションを受けたらしい。(これが民音の来日招聘で、N響オーデションのみならず年末の第九公演、マーラー4番の国内発売のプロモートに繋がったらしい。アマチュア・オーケストラの指揮振りを見学し、合格したらしい。)


NHKには放送コードがあって、オーデションに合格した者でならないと出演出来ない制度になっている。美空ひばりは何度もオーデションを受けたが、審査委員長藤山一郎は不合格にした。演芸部門の審査委員長が永六輔で、コント55号は結局不合格でNHKに出演できなかった。舞台を走り回る芸に永六輔は、それは演芸ではないと立腹した。翌年1980年9月ケーゲルはN響を指揮しているので、間違いではない。


当時東ドイツのケーゲルは国外では無名で、海外のエイジェントがなくて、N響を指揮させる資格がなかったらしい。だから6月にNHKのオーデションを受けるためにだけ来日したらしい。でも、美空ひばりもコント55号も不合格でNHKに出演できなかった。凄い権威だったのだ。


次に、1980年10月にカール・ベーム(1894-1981)が最後の来日をした。


もしかしたら、9月来日のケーゲルは10月来日のベームと、日本で再会したという可能性はあるのだろう。ドレスデン音楽院での恩師と教え子だ。記録によるとケーゲルは9月28日にN響を指揮している。10月6日にはベームは昭和女子大でのウィーン・フィルの演奏会があった。これは完全にケーゲルとベームは東京で再会している。


1981年8月14日、カール・ベームは亡くなった。(ベームは死ぬ前に、来年のブレゲンツ音楽祭に教え子ケーゲルを招待したと考えられる。)


1982年8月8日、オーストリアのブレゲンツ音楽祭にケーゲルとドレスデン・フィルが招待された。ブレゲンツ音楽祭の総監督のベームの指名であることは明白であろう。


ベートーベン作曲ピアノ協奏曲3番(ワルター・クリーン)
        交響曲3番『英雄』
        ケーゲル指揮ドレスデン・フィル


最近、ケーゲルのベートーベン交響曲全集の録音年代が判明した。1982-1983年である。この録音の名声で日本に呼ばれたのかと思っていたが、むしろ逆で日本の評判でこの録音が成立したことが判明した。


ケーゲルの西側世界でのデビューでもあった。
1,恩師ベームが死去して支援者がなくなったこと。2、凡庸でまともな演奏になり、個性的な解釈を封印していまったこと。
以上の理由でケーゲルは西世界でのデビューに失敗した。


もう数年巨匠ベームの支援と、個性的な解釈を発揮し続けていたら、今とは別な評価がされたのであろう。奇人石原完爾が青年将校から、あんたが満州でやったことを2・26事件でやっただけだと反論された時、常識人石原完爾になってしまつた。青年将校を論破出来なかった。奇人を全う出来なかったのが彼の弱さだった。全身奇人ケーゲルになれなかったのがケーゲルの弱さだった。石原もケーゲルも奇人と常識人の間を往来した人なのだ。


最近の昭和史研究では、日本を戦争に追いやった青年将校たちの昭和維新革命(皇道派)は統制派によって消滅させられたことになっている。その統制派が軍部を支配すると、コミンテルンに支配されて、対ソ戦争か対米戦争かの選択で、対米戦争を選んだ。皇道派の軍人は全員が対米戦争に反対していたらしい。コミンテルンはソビエトが祖国だから、絶対対ソ戦争は不可だった。対米戦争に誘導した。アメリカもルーズベルト政権中のコミンテルンは対日戦争を望んだ。皇道派青年将校の暴発を統制派が克服したが、統制派が共産主義者(風見・尾崎・ゾルゲ)にまんまと騙されて戦争に突入したというのが最近の昭和史の研究成果だ。皇道派の粛清は昭和天皇の希望だったが、結果対米戦争反対派が消滅して、日米戦争を容易にさせることになった。