続パスカルの葦笛のブログ

FMラジオやテレビやCDのクラシック音楽の放送批評に特化したブログです。

西部邁と「孤高の指揮者宇宿允人」

保守論壇の巨星西部邁が、自分の番組で「孤高の指揮者宇宿允人」を特集している。宇宿允人(1934-2011・3・5)の没後百日で追悼番組をした。個人誌『発言者』で西部は宇宿允人を招いて、対談をしたのが最初で、5回ほど演奏会を聞いた仲になった。


宇宿允人が2011年3月5日に76歳で死に、7月に追悼番組を放送した。2005年に、東京芸術劇場で宇宿允人の演奏を二階の席で聴き、ベートーベンの『運命』とシューマンの4番を聞いた。


座談会には前衛芸術家の秋山祐徳太子が出席しているのが面白い。彼の友人代表らしい。この人も又孤高の芸術家に間違いない。一般には東京都知事選挙に出て有名になり、それが原因で干されることになった。友人の赤瀬川原平はアバンギャルドな芸術運動をおこなっていたが、芥川賞作家になりトマソン路上観察芸術運動で世間から十分評価されることになった。(この人は千円札模造事件を起こしていて、芸術が政治に触れて危なかったわけだ。しかしこの人は栄誉栄華を獲得して幸運だった。)一方は栄誉を得て、他方は不運。


日本では社会的タブーが存在し、それに抵触した者は厳しい制裁を受けることになっている。中華の鉄人周富徳は脱税で捕まると、以後テレビに出られなくなった。秋山祐徳太子は選挙に出て、芸術家としての市民権を剥奪された。この二つに触れた者は二度と社会からは認められないことになっている。若気の至りで政治を茶化したのが命取りになった。秋山は本来は赤瀬川程度の芸術家なのであろう。しかし無に等しい評価に晒された。まことにもって社会は厳しいのである。脱税と選挙は魔物である。ホリエモンは安倍晋三に選挙に落ちたから捕まったと笑われたという。


                    *


宇宿允人は芸大に入り、尊敬していた近衛秀麿の門を叩いた。「あの大学はダメな大学ですよ」と言われた。芸大か近衛秀麿かの選択を迫られると、近衛秀麿を選んだ。芸大を卒業すると近衛管弦楽団に入り、NHK交響楽団にトロンボーンで入った。10年在籍した。ニューヨーク・フィルに指揮者として留学すると、一年後大阪フィルに専任指揮者として呼ばれた。1969-1971年まで在籍した。


つまり大阪で、フルトベングラーかカラヤンかという芸術上の確執がくり広がれたわけである。『大阪フィル物語』といった一冊の物語が書かれてしかるべき興味深々たるものがあった。この時の大阪フィルにとって重要であり必要な指揮者は朝比奈隆ではなくて宇宿允人であった。宇宿允人によって猛烈な訓練の結果到達される東京以上の実力あるオーケストラが要請されていたのである。


ここまで順風満帆な宇宿允人の人生が翳りをみせた。大阪は東京の植民地であって、それ以上のものではなかった。東京にある物を一通り取り揃えれば、二つ目は必要なかった。二つ目のオーケストラを作ったが、お客は入らなかった。というよりお客はいなかった。東京に行きたいが、大阪で間に合わせたい。これが本音だった。東京に敗残兵として帰った。以降はフリ-ランスの指揮者として生きて来た。楽団も持たず、自主公演を続けて来た。孤高の指揮者と言われる所以であった。


日本では道から外れるとかような扱いを受けることになる。人は凡庸たれ、というのがこの国の処世訓である。不遇の宇宿允人は増々尖った。近衛秀麿や朝比奈隆を是とした芸術とは似ても似つかない芸術に変貌していた。これを芸術の進化と取るべきか、堕落と取るべきかは、議論の余地があるのだろう。


フリーランスの音楽家を寄せ集めで、N響や読響程度のオーケストラに促成栽培する。いつのまにか「あの大学はダメな大学ですよ」が目標のオーケストラに変化してしまった。オーケストラ・トレーナーの指揮者になってしまった。その先に理想のオーケストラがあったはずであったが、ベルリン・フィルを造る所が目標になってしまった。パラドックスに落ちてしまった。ベルリン・フィルのその先のフルトベングラーになるのが目標ではなかったか。


宇宿允人がベートーベンの『ミサ・ソレムニス』を指揮した時、朝比奈隆の嫉妬を買い大阪フィルを追放されたという事は劇的である。朝比奈隆のやろうとしてやれなかったオーケストラ・トレナーの面が、宇宿允人によって到達された。正に今フリーランスの音楽家を集めてN響のレベルに引き上げるノウハウが確立された。このノウハウが朝比奈隆の嫉妬を買った。と同時に宇宿允人の目標を誤らせた。


朝比奈隆はこの難問を自然が解決するに任せた。数年単位での音楽家の水準は向上していった。若い世代は技術の向上が目覚しかった。古い楽団員は自発的に退団していった。教える側に回った。1970年代の大阪フィルはもう宇宿允人を必要としなくなった。新しい世代の躍進で技術は向上していた。わが国ではレコードは先生の演奏を弟子が買うのが習わしになっていたが、朝比奈隆のレコードを無関係な人が自腹で買う現象を生んだ。出せば売れる現象を生んだ。日本で初めて邦人のレコードが商売になった。ジャンジャンのブルックナー交響曲全集の出現が天下分け目になった。二人は近衛から出て、正反対の分かれ道を進むことになった。しかし朝比奈隆と宇宿允人と異質な個性を輩出したことだけは確かだった。これが多様性ということなのだろう。