続パスカルの葦笛のブログ

FMラジオやテレビやCDのクラシック音楽の放送批評に特化したブログです。

「魂を継ぐもの~破滅の無頼派・西村賢太」Eテレ特集

4月29日(土)Eテレで、『魂を継ぐもの~破滅の無頼派・西村賢太』が放送された。例によって件の人物が顔を揃えて七尾の菩提寺に一周忌をおこなった。玉袋筋太郎の元気な姿が見えて慶賀に耐えない。(長く細く人生を全うしていただきたいと願う。)伝説的な人物の朝日書林の荒川義雄氏が登場して拝顔できたのがなによりであった。


まあそれぞれの西村賢太像があって、存分に楽しむ以外にないわけである。人生の素材を出し惜しみしたわけではなかろうが、15年の執筆活動の中で分かってきたことは、実人生が別にあったことではなかろうか。小説家の執筆活動日記『一私小説家書きの日乗』で思い出すのは永井荷風の『断腸亭日乗』で、関連性はあるのだろう。小説家の第一線から脱落していった以降の荷風は、むしろ『断腸亭日乗』を書くために一日を過ごし切磋琢磨していった。日記を書くために一日を生活し、味気ない無味乾燥な日常性に創作まで加担して魅力的な日記を付けることまでやっていた。西村賢太は永井荷風という先人を規範にしていたわけである。それならそれで日記作家でもよかったのではないか。もう小説が書けなくなって、日記を書く作家でよかった。まさにそれが永井荷風の生き方であった。そんなことは西村賢太は百も承知であったはずである。『芝公園六角堂跡』での迷いがそれで、そこを脱皮出来たら、永井荷風のような文明批評家の誕生になっていたはずである。小説家は一度売れなくなるのも必要で、白樺派の作家がプロレタリア文学の台頭で一斉に売れなくなった。プロレタリアの子供が読んだのが、プロレタリア文学ではなくて白樺派であったのは、何とも皮肉である。食えた後に人生に悩めば、どうしても白樺派文学であってプロレタリア文学でない。


私小説家西村賢太の前に藤沢清造研究家、その前に田中英光研究家の顔があった。さらにその前にミステリー研究家の顔をしていたのはあまり知られていない。日下三蔵「探偵小説通としての西村賢太」(『本の雑誌』22・6)によると、時系列では一番古い。中学を卒業して、中3の2学期から不登校になったが、その頃から友人には小説家志望であったことを告白していて、その小説家志望はミステリー作家であった。


中学を卒業すると、自活が始まった。趣味としてはミステリー小説の読書であった。雑誌『宝石』の古本が安く手に入り、いきおい古いミステリー作家を漁るようになった。その中でお気に入りが、もう流行遅れになり忘れられた渡辺啓助と朝山靖一であった。渡辺啓助(1901-2002)の住所が判明すると自宅に本人を訪問しているほどだ。この傾向は田中英光の時発揮されて、田中英光と接触した人物へのインタビューになっている。


昭和三十年代の古雑誌がただ同然で売られていて、いきおい昭和三十年代のミステリー作家中心がテリトリーになる。時代遅れになり、時代の波に乗れなくて海底に沈んだ忘れられた作家に熱中するあまり、知らず知らずのうちにミステリーの流行に乗れなくなり、ミステリー作家西村賢太は誕生することなく消沈した。現代流行のミステリーが面白くないのだ。生来のマイナー志向が祟った。売れるわけがない。


そうこうしていると、現代のミステリー作家土屋隆夫の『泥の文学碑』に出会うことになった。流行作家田中英光をモデルにしたミステリー短編であった。もうミステリーそのものには限界を感じていた西村賢太は、モデルになった田中英光の存在が気になった。こうして容易にミステリー文学から純文学に関心を移行した。破滅派作家田中英光に傾注していった。その成果が『田中英光私研究』全8巻であった。古雑誌『宝石』を漁る手法が意外に役にたった。ここで一応近代日本文学研究家西村賢太が確立される。


近代日本文学研究家西村賢太が挫折すると、作家田中英光の実作の私小説に関心が転じる。ミステリー作家としての誕生に挫折した西村賢太は、その心境を託して、恩師太宰治の墓前で自殺を実行した田中英光の胸中を推し量ってみた。「太宰治のような良い小説を書きたかった」といって自殺した。その田中英光の墓前で、「三流作家田中英光程度でもいい、そんな小説でも書かせて下さい」と切実な凡作家の願いの墓前参拝の私小説を書いた。文字通リの埋草的な戯文であったかも知れない。しかし「なかなか良いじゃないか」と、保昌正夫(1925-2002)が褒めてくれた。凡作家の切実な願いが書き切れていた。西村賢太はようやく山を当てた。長い人生の彷徨があったが、無名作家藤沢清造の墓前を参拝する変わった青年の墓前生活を書く前夜は迫っていた。全てが整った。(蛇足だが父親の性犯罪は当時の新聞には掲載されているのだろうが、これも意外なものかも知れない。)