続パスカルの葦笛のブログ

FMラジオやテレビやCDのクラシック音楽の放送批評に特化したブログです。

中森明夫大杉栄論(アナーキー・イン・ザJP)

今日は関東大震災から百年、と同時に大杉栄没後百年記念日である。


中森明夫の小説『アナーキー・イン・ザJP』は、大杉栄が登場する小説で、大杉栄没後百年(1923ー2023))ということで、5月12日(金)のNHKラジオの「高橋源一郎の飛ぶ教室」に中森明夫が招かれ、彼の大杉栄論が披露された。彼の命日9月16日は曰く因縁があって、何と高橋源一郎所縁の人が命日にしてくれたらしい。


O頭脳警察の『時代はサーカスの象にのって』ですが、ほとんど放送禁止で放送出来るのはこれくらいです。もう一つ、パンタさんがもう七十代半ばで、今病気なんです。寺山修司の有名な戯曲に作曲したものです。つい一カ月前肺炎で入院されてかなり重篤でしたが、退院されて今は療養されている。エールの意味です。アナーキーの先輩なんです。


Oヘンリー・ミラーに、何でもいいから楽しいことをしよう、という言葉がある。大杉栄の人生なんて、悲惨ですよ。本人はあんなに楽しそうにしている。皆余り楽しそうではないですよね、今の人は。


O今三島由紀夫伝、1925年生誕百年記念、さ来年めざして書いています。彼もアナーキストです。今生きていたら面白い。


O『アナーキー・イン・ザ・JP』に大杉栄が登場する。


O自叙伝(『日本脱出記』)、初めて読んだのは東京で高校に行っていた頃です。行かなくなっちゃった。それでふらふらしていて、先輩のアパートに遊びに行った。そこにある本棚の本を読んでいたんです。1977年17才だった。そこで自叙伝を読んだ。ラジオから『アナーキー・イン・ザUK』(セックス・ピストルズ)が流れていた。同じ頃に映画が好きで、名画座でよく見ていた。吉田喜重の『エロス・プラス・虐殺』を見た。ちんぷんかんぷんな映画で、エロい感じだった。大杉栄役を細川俊之がやっていた。自叙伝読んでたから、これは違うと思った。如何にも二枚目で、「春三月・・・」なんて、美文調で語る。原文はもっと喜劇的だと思った。大杉栄は喜劇的な人だと思った。17才であった。


O自叙伝、陸軍幼年学校の頃、108頁です。


僕は呼ばれて行った。それは下弦だということは知っていた。(上弦の月、下弦の月。)そのカ行が、ドモリだから言えない。カ行タ行、とくにドモリにはカ行が言えないのだ。いわんやその下にカ行の下が続くのだ。上弦ではありません。いたしかたなしに答えた。「それは何だ」「上弦ではありません。上弦ではありません」「じゃあ何だ」ドモリには「下弦です」といいたがったが、下弦が言えなかったのです。


ここが面白い。大杉栄の文章は面白くて、読みやすい。僕は『アナーキー・イン・ザJP』を書いた時、作家の重松清さんに書評してもらった。重松清さん自身がドモリなんです。「カ行がしゃべれない大杉栄にとっての恋と革命」と書いてくださった。瀬戸内寂聴の『美は乱調にあり』の副題ですよ。大杉栄はドモリでカ行が言えないのに、「コイとカクメイ」と言うのが苦手なのに、苦手の恋と革命を実践させたという重松清一流の駄洒落だった。


O大杉栄はフランス語が得意だったが、フランス語はドモらなかったらしい。西部邁もそういっていた。ドモリなのだがアジ演説はドモらない、と。


Oお金を貰うが、誰からか言うのが大杉栄。北一輝などは三井から一万円貰っても言わない。それを堂々と言う。お金をやった後藤新平は相当困った。


O後藤新平の孫の鶴見俊輔は「方法としてのアナーキーズム」がある。鶴見俊輔と大杉栄は母親から虐待を受けている。母親が折檻すると子供はアナーキストになる。


O大杉栄で仲間のエピソードが面白い。和田久太郎が面白い。文章のグルーブが感じられる。


Oアナーキズムには聖典がない。


Oアナーキズムを正式に研究したことはない。80年代は20才代で、サブカルチャーをやっていた。当時神田古本屋街に行くと、倒産出版社の放出本が氾濫していて、竹中労や平岡正明の本があふれていた。いかがわしい、正統な知識でない人たちである。竹中労に『大杉栄入門』なんて本がある。嘘か本当か分からないようなことが一杯書いてある。その点マルクス本はきちんと書いてある。アナーキズムはいい加減なのだ。で、いかがわしく書かれている。


O一党独裁のマルクスは統制が効いている。アナーキズム対ボルシェビズム、アナ・ボル論争があった。それでアナーキズムはずっと負け続ける。アナーキズムは敗北の歴史である。だけど負けた人たちの何と魅力的で、面白いことか。素敵な人たちがいる。


O教師とか父親とか、教条的に読めと言う。縦から押さえつける感覚ではなく、アナーキズムは斜めからくる。いかがわしい伯父さん。何をやっているか分からない面白い伯父さん。アナーキズムは伯父さんんの思想である。
  *イギリスの画家フランシス・ベーコン(1909-1992)は何んにもやらないグレた人だった伯父さんから一番影響を受けたといっている。父の弟で、ゲイも仕込まれたけど、人生を生き画家として生きる全てを教えてもらった。世間的には六で無しだった。
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1923年9月1日、関東大震災が起きた。ここで高橋源一郎は爆弾発言をした。9月16日に大杉栄は憲兵から虐殺されたが、虐殺した甘粕大尉は親せきと言う。大杉栄とは深い関係があったのだ。親せき間では甘粕正彦は良い伯父さん、偉い人、アナーキストなど惨殺して良かったと受け継がれていた。世間では殺人鬼だが身内では人の良い大叔父さんだった。そこで調べると、高橋源一郎と有名な社会学者見田宗介東大教授とは親せきであり、右の西村真悟元代議士とも親戚と判明した。(これが甘粕家の本来の道。)結構なハイソだ。


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関東大震災と大杉栄没後が百年というのが奇縁だろう。この時大杉栄が甘粕正彦に虐殺されたわけだ。同じ日本人同士なのに安易に虐殺がおこなわれたことは異常でさえある。ましてや大杉はこういう時は社会主義者は反動の標的にされるから行動は自重したいとまで、隣人の内田露庵に言っていたらしい。文明国の一国を自認していた日本が、警察署でリンチ殺人が行われたことは許し難い暴挙であった。そこまで大正の日本は狭い了見に支配されていたのである。せめてもの救いは、大杉の甥まで殺害したことへの非難があったことだ。甘粕大尉の親戚の高橋源一郎は今リベラルだが、社会が右傾化したら、甘粕大尉に豹変して、右翼反動に加担するということだ。そういうことを既に三島由紀夫は『豊饒の海』で、人間は個人を越えた一族の源流というものがあって、それが個人を支配すると指摘している。それを敷衍すれば、甘粕大尉の家系はなにかしらをやらかす家系ということになる。仏教の阿頼耶識という思想は近代人には受け入れ難いし、初稿版折口信夫では住吉大社の祭りは奇形の家系が代々受け継ぐと書かしめた意図というものが近代では受け入れられないのである。しかしこのベール(隠し幕)を剥がすと、本質が現れる。そこへ三島由紀夫は最後は踏み入ったわけである。ポストモダンの作家になった。


今リベラルの巨星たちは実は家系図を遡行するとゴリゴリの右翼の活動家だったりする。赤軍派の重信房子の父は右翼の血盟団の一員重信末夫だったりする。本質は左翼右翼ではなくお騒がせ一族だったという一点だ。先頭で右で人を騙し、今度は左で人を騙す。後方の大衆は右顧左眄するだけ。ここに三島由紀夫は人を騙す家系が連綿と続いているのだよ、と指摘したのは卓見だった。高橋源一郎と見田宗介の家系は先頭で扇動する家系だった。その先に右で扇動した甘粕大尉がいた。右翼左翼のブレは大した違いはないのだ。大きく揺れる人間、得異な人物が出る家系がいる。


余談だが、戦前甘粕正彦は右翼の英雄で、甘粕石介こと見田石介は姓名を卑下することなく堂々と甘粕姓を名乗っていた。また西田哲学左派の群小哲学者で有名人ではなかった。どうでもいい人だったので、姓名詐称の問題はない。だのに理由不明で戦後姓名変更をした。仄聞では夫人の旧姓に変更したという理由だが、見田公子こと藤田公子で、見田姓でないのが不可思議だ。戦後左翼人脈の中で甘粕大尉は汚点であった。逆風が吹かないでもない。そういうことを心配して敗戦を機会に甘粕姓を忌避したのだ。


穿った見方をすると、戦後は敗戦革命と左翼政権樹立がリアリティがあり、ハンガリーの左翼政権のルカーチ文化大臣のように、左翼政権下で見田石介は文化大臣に内定していたのかも知れない。そうなれば甘粕大尉との関係が追及される。早々名前を変更して備えていた。もし見田石介文化大臣となった時、日本でスターリン粛清のような巨大粛清が実行されていたかも知れない。反動分子の百万二百万が粛清される。左翼政権に反対する反動分子は生存すら許さない。甘粕大尉の大杉栄虐殺は、その前哨戦なのである。長いスパンで歴史を見ると、そういうことも考えることができる。白色テロに赤色テロ、色は違うがテロリズムでは同じである。甘粕正彦・甘粕石介を動かすテロリズム礼賛があった。三島由紀夫はそこまで人間を考えていたのだ。甘粕大尉の虐殺は個人プレーではなく一族に流れる血なのだ。仏教の阿頼耶識を見据えると、近代(個人主義)の欠陥がよく見えるのだ。吉本隆明の『共同幻想論』もポストモダンだよね。三島・吉本は近代の桎梏をなんとしても克服したいと考えていた。