続パスカルの葦笛のブログ

FMラジオやテレビやCDのクラシック音楽の放送批評に特化したブログです。

追悼:加賀乙彦『フランドルの冬』とアンリー・エー

芹沢光治良は『巴里に死す』が仏訳され、ノーベル賞候補になったとといわれている。加賀乙彦の『フランドルの冬』が仏訳されたら、同様のことがあったのではないか。むしろ内容はフランス人には身近であり関心の的もあり、ノーベル賞受賞に届いた気がする。スキャンダラスな内容はフランス人向きで、フランス人の趣味にも合致している。有名な精神科医の隠されたセックス・スキャンダルはそれだけで面白い。


フランスの精神医学者アンリー・エー(1900-1977)は、『フランドルの冬』に登場し3頁ほどの紹介文がなされている。この小説のフランスでの主人公は精神科医ドロマールなのだが、アンリー・エーがモデルになっていることは余り気づかない。


音楽愛好家としては『フランドルの冬』に指揮者マルケヴィッチ(1912-1983)が登場することに言及したい。それだけで加賀がクラシックの愛好家であることが分かる。当時ラムルー管弦楽団の首席指揮者(1957-1961)で、パリで指揮振りを堪能したのであろう。


この小説で、加賀乙彦は高名な精神科医アンリー・エーがゲイであり幼児性愛者でありその患者を催眠術で生体実験していることを、精神科医ドロマールを通して告発しているのである。だから現実のアンリー・エーであってはならないわけである。医学の進歩はしばしば医学の為の医学として患者は実験材料であって、医学研究のために犯してはならない領域の逸脱を犯すのである。それがあって大いに医学が発展する。日本の精神科医コバヤシはフランドルの冬の間精神病院で指導医ドロマールの指導を受けながら、彼の正体を突き止めてヨーロッパの暗黒面を知らされて、苦い体験をするのである。


ちょうどフランスのアルジェリア独立戦争の時で、愛国心でフランス人の医者が参加するが、実体は植民地から安価に原材料を取得するだけが目的で、それが失われたら国内の資本主義には大打撃であった。それだけの目的だけに生命を賭けて戦争する意義があったのか、従軍医師は後悔し再生できない挫折を味わう。それを加賀は書いている。戦勝国は今もってこの悩みを持ち続けている。


輝かしい先進国のヨーロッパは日本で見るほど清潔で偉大でなかったことをコバヤシは徹底的に味わうのだった。


                 *


鳥居珠江『主体の行方:ハイデガーとアンリー・エー」(『芸文研究』2005・12)
偶然この論文を読まなかったら、アンリー・エーの存在に気づかなかったし、エーとドロマールの関係に気づかなかった。二人は現存在と世界内存在という用語を駆使して、精神と存在の関係を論じている。エーの意識論は、主体が正しく機能しないと人格が破壊されて、言葉と世界とが不一致になり、コミュニケーションが成立しなくなり、ついに人間は植物になる(エー独特の言葉)。植物人間のことらしい。


エーは人間はア・プリオリに存在するが、ハイデガーは人間はア・プリオリに存在しない。医者のエーは赤ん坊も人間と見なすが、ハイデガーは道具を持ってから人間になる。そこでエーは現存在と世界内存在は一致している。人間は誰しもどんな人も狂人になる。ハイデガーは狂人は人間でないとする。低次元の人間は人間でない。(ユダヤ人も人間ではない、となるか。)エーは高次元であろうが低次元であろうが、皆平等に精神病を発病する。エーの人間は、教養ではなくて、日曜茶飯事の作業が機能できる人間のことである。


ドロマールは、コバヤシに「存在と時間」は読んだか、世界内存在の用語は分かるかと聞くシーンがある。「つまり人間のアプリオリな規定は世界内存在です」ともいう。こうなるとドロマールはエーのことだということになろう。(新潮版254頁)


コバヤシは19世紀の精神医療史の理解に困るが、ドロマールの『19世紀のフランス精神医学と精神病院』を読んで参考になった。これはエーの『医学史における精神医学の歴史』のことなのであろう。ドロマールの学殖は歴史にもあり、医学史の著作があった。エーを敷衍しているわけで、エーにも19世紀精神医療史の著作があった。エー=ドロマールだから『フランドルの冬』の要約は『医学史における精神医学の歴史』とみていいだろう。ピネル・フェルュスという二代の医療改革者によって、狂人・犯罪人の一緒くたが解放されて狂人は病人扱されて病院に入院され、作業療法として農業実習がなされた。精神医学は先駆者がいて進歩し発展した。


エーとフーコーは犬猿の仲で、フーコーの『狂気の歴史』はエーを激怒させた。フーコーは、狂人と犯罪者とが分離されたことで、精神医学は狂人を一層の身体拘束を強めた。犯罪者は刑期を終えれば市民に戻ったが、狂人は病院から一生退院出来ない身になった。二人の結論は正反対であった。


物は言い用、角度が違えば見え方も違う。エーと見るか、フーコーと見るか。


実は加賀乙彦は有名なジャック・ラカン(1901-1981)と同僚になった。ラカンは有名になる前の一介の精神科医であった。大成する前のジャック・ラカンといえば、それだけで興味深い。なのに加賀乙彦は印象記も残さず、不問にしている。ジャック・ラカン随門録もあってしかるべきだろう。加賀はラカンを低く見て、大理論家になる野望があったか。


加賀乙彦の年譜には、『フランドルの冬』のフィクションの事項と『年譜』のノンフィクションの事項とが交差するという奇妙な関係を生んでいる。昭和34年の事である。


アンリー・エーは1933年にボンヌバル病院の医長に就任し、1970年の定年退職まで
在職した。


加賀乙彦は1959年4月サンタンヌ病院で知り合ったミッシェル・エンヌの招きで同氏が医長をしているフランドルのバド・カ・レ郡立サンヴナン精神病院の内勤医になる。(『加賀乙彦年譜』)


ここに主人公のドロマール医師がいてコバヤシはドロマールの正体を暴くことになる。それが『フランドルの冬』である。


加賀乙彦の本名小木貞孝の公的な経歴は、『加賀乙彦年譜』とは異なる経歴が記されている疑問がある。1959年アンリー・エーが医長をしているボンヌバル病院に小木貞孝は勤務したのではないか。例えば刑務所や上智大学に提出した履歴書には『加賀乙彦年譜』ではない、この履歴になっている疑問がある。フランドルのバド・カ・レ郡立サンヴナン精神病院は創作ではないか。アンリー・エーの名前を削除して、ドロマールの名前を浮上させる操作である。『フランドルの冬』を成立させるにはそれが必要であった。


加賀乙彦には狷介且つ大胆な所がある。今も太宰賞は小さい賞で、なお且つ次席という小さい小さいご褒美で、こんなに長い間執筆活動を続けた。小説も膨大な量である。没後は絶版が続き、急速に忘れられるに違いない。忘れられない一冊、『フランドルの冬』が一番残るのだろう。