続パスカルの葦笛のブログ

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山口恵以子『月下上海』と八島多江子はディヌ・リパッティを聴いたか

           山口恵以子『月下上海』(文春文庫版)


人気作家山口恵以子の『月下上海』は松本清張賞を受賞した。女主人公の八島多江子は上海に赴き洋画家の肩傍らスパイ活動をするという奇想天外な物語が魅力的である。女性離れした気宇壮大な発想が面白い。その一つに上海の家でリパッティやコルトーのレコードを聴くという場面がある。なるほど山口恵以子はクラシック音楽のマニアックな愛好者なのだということが知られるのである。


小説では八島多江子は昭和17年(1942)に上海に渡航し、昭和21年(1946)に帰国するのである。その数年間を上海というヨーロッパと見間違うかの国際都市に生活するのであった。


ディヌ・リパッティ(1917-1950)は、1939年からピアニストの活動を開始し、同時にレコード録音を始めるのであった。リパッテイは、1952年に師のコルトーが来日して、自分には自分を上回る天才的なピアニストのデイヌ・リパッティがいるのだ、と言い出してからその存在が知られるようになった戦後派のピアニストなのだ。


しかし戦前の国際都市の上海は直接的にヨーロッパと直結していたことがミソである。イギリスやフランスで製作されたレコードは直接入って来た。かの地で録音されたレコードは上海で聴かれた可能性がある。


だから『月下上海』で主人公八島多江子がレコードキャビネットからリパッティのレコードを取り出して、聞いたとしても辻褄が合うわけである。


戦前にリパッティがレコード録音したものを挙げてみたい。テスト録音で市販はされなかった録音もあるようだが、この見極めは大変困難である。


1936・6・25
バッハ、アルマンドーパルティータ第一番BWV825
バッハ=ブゾーニ、トッカータ
エネスコ、ピアノ・ソナタ第一番第二楽章
ブラームス、間奏曲Op117の2
      間奏曲Op118の6


1937・2・25,1938・1・22
ブラームス、ワルツOp39
      ワルツ集「愛の歌」Op52


1941・4・28
バッハ=ヘス、「主よ人の望みの喜びよ」BWV147
スカルラッティ、ソナタL387
ブラームス、間奏曲Op116-2
      間奏曲Op117-1
シューマン、交響的練習曲Op13-9番
ショパン、練習曲Op10の5黒鍵
リスト、小人の踊り


1943・1・14
リパッティ、古典様式による小協奏曲Op3


1943・3・2
エネスコ、ブーレーピアノ組曲第二番Op10
     バイオリンソナタ第二番Op6
     バイオリンソナタ第三番Op25


1943・3・4
リパッティ、左手のためのソナチネ


1943・10・18
エネスコ、ピアノソナタ第三番Op24


以上が戦前のリパッティが録音した全てである。小説の話だが、この中のレコードを聴いたことになっている。


下の戸棚に並べたレコードを調べ、中から一枚取りだして蓄音機に賭けた。スピーカーからリパッティのピアノが流れ出した。槙はソファにもたれ、煙草をふかしながら、目を閉じてレコードを聴いた。
 リパッテイのツィガーヌが終わると、今度はコルトーのショパンを掛けた。(山口恵以子『月下上海』)


1942年の上海でリパッティのレコードを聴いているというのだから、かなりハイブローな人物である。それよりも作者の山口恵以子にマニアックさを感じる。恋人のルイはパリ音楽院に留学したピアニストだとう設定だから、マニアックぶりをうかがわせる。


ところがリパッティの「ツイガーヌ」を聴いたというのがいけなかった。リパッティ作曲『ツイガーヌ』(1934)「管弦楽のための組曲」とあるのだ。どうみてもピアノ独奏曲ではない。何故「左手のためのソナチネ」としなかったのかな、と悔やまれる。筆が滑つてしまった。ここまで資料を調べて、残念。戦前のリパッティは無名と言っていい存在であったが、山口恵以子は八島多江子に天才リパッティを聴かせたかったのである。


                 *


小説『月下上海』は、財閥の令嬢が優秀なピアニストのルイと結婚し、ルイの浮気で結婚生活が破綻し、画家として再出発をする物語である。東洋のマタハリと呼ばれた男装の麗人の川島芳子ように、上海でスパイ活動をして波乱万丈の人生を送るのである。エンタメとしては面白い限りだが、女性にない気宇壮大なスケールで綿密な時代考証で描いた長編小説である。昭和史を描いたということで松本清張賞の栄誉に浴したようだ。


上海交響楽団が出てくるが亡命ロシア人のメッテルや朝比奈隆もここで活躍した。混じりけなしのヨーロッパの音であった。


案内役の岸は憲兵隊の槙大尉で、上海財界の大物夏方震に接近して重慶の共産党政府との繋がりを証明してくれと依頼される。彼は日本の傀儡政府の汪兆銘を転覆する計画を持っていた。槙大尉としては彼を逮捕して転覆計画を阻止したい。八島多江子は女スパイであり川島芳子だ。


上海閥の重鎮に元国家主席の江沢民(1926-2022)がいる。この実父は戦争中に日本軍に従属していたスパイだといわれ、中国国内でも江沢民の父日本スパイ説が指摘されている。(遠藤誉は毛沢東日本スパイ説を唱えている。)そこで江沢民の打った手は反日宣伝だった。大声で罵倒すると小声の真理が消えてしまう。大声の反日教育に反対出来ない状況を作る。父江世俊(1895-1973)が戦争中日本軍のスパイだったことがかき消されてしまった。『月下上海』に登場する夏方震は江沢民の父江世俊の日本スパイを匂わせていないか。


夏方震に求愛される八島多江子は本気で惚れて、槙大尉の逮捕を阻止したりする。日本の敗戦で憲兵の非道さから槙は戦争犯罪を問われ逮捕と処刑となる。上海生活の成果は水の泡と消えて、敗戦の日本に帰国するのだった。