続パスカルの葦笛のブログ

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西村賢太と石橋忍月


「名は体を現す」、名と実体はうまく合っている。(広辞苑)


石橋忍月は明治の文芸評論家で、筆名を忍月と号した。雲に隠れた月で、洒落た雅号だ。隠れても月で、陰陽道の片割れ他方の巨匠であるという自負である。しかし忍月には月の裏側、人の眼には見えない月という意味もあるようだ。人の眼に触れない存在なら、存在価値もないことになる。ということで、明治に活躍したことのある文芸評論家として、忘れられてしまった。忍月なんて付けるんじゃなかった。人の眼に触れることがない。不吉な名前になってしまった。


西村賢太は、田中英光の研究で研究家仲間から疎外され、そういう邪魔のない無名作家藤沢清造を集めることにした。収集家がいないので、西村賢太の独壇場になり、日本一の収集家になってしまった。古書店主から高く買い過ぎるよと苦言を呈される。「7万円が相場だよ。70万なんて狂気の沙汰だよ」。しかし熱愛する藤沢清造の自筆原稿なら高くはない。敬愛する研究者保昌正夫に研究成果を相談すると、田中英光なら読者も研究者も多いが、藤沢清造には読者も研究者もいない、つまり研究しても読む人がいないと断られる。すぐに日本一の収集家になれるパラドックスの逆襲を受けてしまった。世にいう一人相撲だった。


小説家西村賢太は文学研究家ではなく小説家だから、以上を小説に書いて芥川賞まで取ってしまった。作家生活十年、愛人へのDV(家庭内暴力)で売る作家にされたが、もう一度原点回帰して初心から再出発しようと考えた矢先、客死してしまった。第二期の西村賢太の活動に入る時期であった。


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明治20年から40年は、尾崎紅葉と硯友社の時代であった。明治18年、東大の学生だった紅葉ら4人で硯友社を結成した。明治21年1月、「新小説」に石橋忍月・依田学海・山田美妙が参加した。忍月は7月に東大法学部を卒業し、8月内務省に入った。明治23年森鴎外の「うたかたの記」の発表に、役人の忍月は文芸評論の筆を執った。筆名の忍月は内務官僚の表の顔を憚ったのかも知れない。


後世言うところの森鴎外石橋忍月幽玄論争が始まった。6回の応酬がおこなわれた。文学史の評価では、忍月は再起不能の打撃を受け、内務省の就職を切っ掛けに文壇を去ったとされている。


明治26年、忍月は役人生活を辞め、『北國新聞』に顧問として再就職している。27年1月9日、泉鏡花は父の死去で金沢に帰省した。忍月と鏡花の交渉は不明だが、28年に2本の短編が『北国新聞』に発表されているので、面会はあったのだろう。


明治30年、忍月は4年ぶりに上京した。紅葉の文学サロンに復帰した。鏡花の最晩年の長編小説『薄紅梅』は、紅葉の女弟子北田薄氷をめぐる弟子たちの鞘当てを扱い、副主人公の忍月が失恋する顛末を鮮やかに描いた傑作である。この小説と『新小説』の編集者としての忍月が解明されると、従来の忍月評価は変わろう。


東京に転居した石橋忍月は法律事務所に勤める弁護士が表の顔で、忍月は世を忍ぶ文芸評論家の顔であった。(上京は『新小説』の編集をしていた幸田露伴が降りて忍月が編集を引き受けたからだった。意外にかつての論争相手の鴎外の推挙があったのかも知れない。文学の野心は旺盛であった。)


明治32年、忍月は長崎の裁判所判事の地位を得て、引っ越した。鏡花『薄紅梅』によれば、忍月の失恋が原因になる。北田薄氷(1876-1900)は同門の挿絵画家梶田半吉に取られて、結婚し去った。


『薄紅梅』モデル実在対比表
上杉映山    尾崎紅葉
月村京子    北田薄氷*薄氷の薄は『薄紅梅』に通じているのだろう。薄幸の女も。
野土青麟    梶田半吉*青大将野郎(蛇)と鏡花は憎んだ。忍月を代弁している。
矢野弦光    石橋忍月*玄(黒)光は雲に隠れた月で、忍月のアナグラム。
自劣亭思案外史 石橋思案*じれったいほど思案する優柔不断の男だったか。
木村曙     木村曙*木村荘八の一族。
三浜渚     三浜渚
依田学海    依田学海
樋口一葉    樋口一葉
若松賤子    若松賤子
小金井きみ子  小金井きみ子
以下9人のあだ名の弟子不明(とても実在の名前を解明できない。)


『薄紅梅』は、紅葉門下の紅一点の女弟子、皆から愛されていたし、帝大卒で弁護士の忍月、今でいう三高の極みだったのに、蛇のような陰湿な眼をした嫌な男が好きになって、理想の男の忍月を蹴って、結婚してみたものの案の定薄幸な女の人生だった。女は悪い男が好きときている。鏡花は昔の懐かしい人々を回顧して、文学の花園を描いた。薄幸の紅一点、女弟子という意味合いが『薄紅梅』の題名に含まれているのだろう。


明治33年、長崎に立ち去った石橋忍月は地方判事の傍ら、『新小説』の編集者の活動を続行している。まだ文学に未練があった。失恋が原因ではない。最大の編集者冥利は、『新小説』2月号に泉鏡花の傑作「高野聖」を掲載したことだろう。ある面では石橋忍月は無名時代の泉鏡花を支援していた。そして最高傑作を編集者として取り扱ったのである。原稿を注文したり、掲載に合意をする。作家の生死の与諾権を握っている。文学に野心満々。


明治37年、忍月は長崎市議会議員になる。


明治39年12月、『新小説』に「春画後刻」を発表する。これを以て、石橋忍月の文筆活動は終わる。政治に関心が出たか。弁護士を続けながら、長崎市会議員、長崎県会議員の地方政治家の面が続くのである。
明治40年4月26日、石橋忍月に三男貞吉が誕生した。後の文芸評論家山本健吉(1907-1988)である。山本健吉に、二人の兄がいて、フランスのヴェルレーヌだかマラルメだか最新の文学潮流の名を教えられたが、あんな爺臭い人になってしまったという回想がある。父や兄は文学を志したが、成功しなかった。親子二代に渡る文学の挫折があったわけである。


正宗白鳥に『自然主義文学盛衰史』という本がある。明治20年の尾崎紅葉の硯友社が興隆し、明治40年自然主義文学の興隆で硯友社文学が没落する。紅葉の弟子の田山花袋・徳田秋声によって瓦解する。人間の恥部を描いて面白いのかよ。まさに石橋忍月は文学に興味を失った理由はそういうことなのかも知れない。恋愛や政治ではなかった。