指揮者ワルベルク年譜(2)
9月29日はワルベルク(1923-2004)の命日です。付け加えれば、生誕百年記念年です。ワルベルク年譜(2)を掲載します。
第一期黄金時代を迎えたワルクベルクですが、超一流指揮者はここで世界的な名門オーケストラのポストに就任します。が、ウィーン・フィルは将来性なしと厳しい査定をします。恩師クルト・ヴェスはフルトヴェングラーの後継者と認定されながらも、選んだのはカラヤンだった。そのカラヤンが選んだのは、ウィーン・フィルではなくてベルリン・フィルだった。ウィーン・フィルの後継者と言われたテイーレマンが選んだのはミユンヘンやドレスデンだったのに似ている。ウィーンではその手に乗ると潰される伝統があるらしい。カラヤンもテイーレマンもウィーン・フィルの手には乗らなかった。
かなり有望な青年指揮者ワルベルクは次はウィーン・フィルのポストかと内心思ったのではないか。
1964年 41歳 ウィーン・トーンキュストラ管弦楽団の首席指揮者に就任する。
通り相場としては、ウィーンの第二クラスのウィーン交響楽団が適任
だったのではないでしょうか。この下に第三クラスのオーケストラが
並びます。トーンキュストラとか、フォルクスオーパーとか。
ウィーン交響楽団のポストはウィーン・フィルにとつて鬼門になっています。ここと親密な関係を持つとウィーン・フィルには疎遠にされるというジンクスです。カラヤンは別格だが、クレンペラーやサワリッシュやジュリーニは長い間敬遠された。
ウィーン・フィルのコンマスに伝説的なアルフレッド・ローゼがいたが、ウィーン響のコンマスにはアドルフ・ブッシュがいた。これではウィーン・フィルでも盾打ち出来なかった。
コンマスが指揮しているようなものだった。兄貴のフリッツ・ブッシュがモーツアルトのテンポは如何に、と問うほどだった。ミヒアルト・ギーレンはアドルフ・ブッシュのモーツアルト演奏を基本にしている。むしろウィーン響の方が本流という意識、格が違うという名門意識がウィーン・フィルにあった。対抗意識が相乗効果になっていた。
1966年 43歳 6月に初来日して、NHK交響楽団を指揮する。
ワルベルクをN響に推薦したのはクルト・ヴェスらしい。ウィーン・トーンキュストラ管弦楽団の前任者でもあるし、ウィンナー・ワルツの名手というのもN響の希望だったという。ブルックナーの交響曲も録音しているし、硬軟やれる人だった。
6月は6回もN響を指揮していて、お得意のチャイコフスキー4番も
やっている。18日はシュトラウスの夕べだ。
1968年 45歳 2年後再来日で、たっぷり一ヵ月滞在している。
ドボルザークの9番、リヒアルト・シュトラウスの『アルプス』交響
曲、ブラームスの3番を指揮した。N響の出した答えは、はいそれま
でよ、だった。
1970年 47歳 テアトロ・フェニーチェでルネ・コロが歌う『パルシバル』の指揮を
した。
1975年 52歳 3度目の来日だが、7年間の空白は微妙である。2回目は礼儀で、3
回目を招待されれると本物という評価らしい。なら評価されていなか
ったことになる。
6月18日のフランクの交響曲は名演だったらしい。
ウィーン交響楽団の来日公演に、ジュリーニと同行した。
ミュンヘン放送管弦楽団首席指揮者(1975-82)に就任。
バイエルン放送交響楽団が有名だが、一格下のオーケストラだった。
同時にエッセン劇場総監督・エッセン・フィル音楽監督(1975-
1991)に就任した。
テンシュテットは東ドイツから亡命すると、さっそくグラムフォンの
重役に売り込んだそうだが、そういう野心があってもよかった。
1977年 54歳 6月8日にマーラーの5番。6月20日モーツアルトの41番。
1979年 56歳 ストラヴィンスキー『火の鳥』をやっている。レパートリーが尽きた
か。
1981年 58歳 メンデルスゾーン4番、チャイコフスキー4番と得意の曲目。
1982年 59歳 連続で来日した。リムスキー=コルザコフの『シェラザード』、メン
デルスゾーンの3番。シベリウスの2番、これも名演だった。
1984年 61歳 1月12日エッセン・フィルでチャイコフスキーの6番を指揮し、自
主製作盤になっている。春の復活祭にウィーン交響楽団主催の『ウィ
ーンの春』に登場する。6月に来日して、ムソルグスキーの『展覧会
の絵』を指揮した。N響の福山市公演でベートーベンの6番を指揮し
たのが珍しい。
1985年 62歳 古巣のウィーン・トーンキュストラ管弦楽団の日本公演旅行に、クル
ト・ヴェスと共に参加した。二人共ブルックナーの交響曲とウィンナ
ー・ワルツが得意という共通点があった。