続パスカルの葦笛のブログ

FMラジオやテレビやCDのクラシック音楽の放送批評に特化したブログです。

中国で空前の川端康成の大ブーム

川端康成(1899-1972)が今中国で空前の大ブームが起きている。滅びの文学の継承者に、今や確実に没落しようとしている長大国中国が哀れ悲しんで共感するわけでもあるまい。


その理由は、今年2023年が川端康成の没後50年で著作権が切れ、印税を払わなくて自由に出版出来るという、いかにも合理的な国民性が最大の理由だという。しかし読む理由がないと、そうだとしても出版理由にはならない。もう一つの理由は、川端康成がおよそ非政治的な人物で彼の書く小説が非政治的な内容であることが、最大の魅力なのだという。


今中国人は政治に飽き飽きしていて、およそ政治に無関心なのだという。そうしないと上から下まで、安心して生きられない。中国政府は国民が政治に関心があることに恐怖心を感じていて、民主主義が芽生えることは中国共産党を批判することであり、事実是求(毛沢東)の精神が反国家なのだという。


日常茶飯事の生活が全ての川端康成の些末な文学に、最大の魅力があることを中国人は発見したのだ。少しでも社会に感心を持つことは、市民生活にとって最大の危険性である。


人間は男女の恋愛関係にしか本質はない。その関係にしか関心を持たないで、その関心に集中して生きている川端康成の超保守的な生き方に、今の中国人は親和性と共鳴が出来るのだった。


『伊豆の踊子』は旧制高校のエリート学生と下棲みの旅芸人の娘の階級意識に疎外された恋愛が魅力であったが、今や自由恋愛の一点にのめり込める関係性が魅力となっている。温泉場で社会の階級差別を忘れて男女がエロスに導かれて肉体関係を成就するのが賞賛されるのだった。


『雪国』では上越線で結ばれたトンネルという東京と越後湯沢の分断は、現実とユートピアの分断であり、中国語翻訳者の雪国は現実の汚く汚れた世界を雪が降って純白の汚れなき美しい世界に浄化してくれるメタファーであり、東京で汚れた生活をする男性がトンネルから出て越後湯沢に出て雪国に到来した脱出感を、『北越雪譜』を引用して解説したことが絶賛されている。つまり現実のおぞましい中国が東京であり、汚れた中国は雪が覆って美しい雪国(ユートピア)で理想の女性と恋愛をする。中国人の逃避願望が川端康成によって成就されているのだった。


川端康成の文学は現実の逃避願望であり、人間の分裂は悲劇に終わるのだが、奇妙に現実が言い包められている大人の文学となっていて、中国共産党と対決しない生き方を川端康成が示していることに共感できるらしい。


最後に『山の音』だが、本質を突いたのは三島由紀夫だけだった。山の音とは一見不可解な題名だが、山の音とは何に、となる。海外では率直に老人の義父と息子の嫁の不倫で、小説では言及されないが、それが主題である。訳者のサイデンステッカーもそう訳している。欧米では日常茶飯事の肉体関係で、祖父がテレビを見ている孫娘を襲う、妊娠した主婦が男の産婦人科医の診断を受けるとバッグの中にピストルを用意する、大学の研究室に教授と女子学生がいるとドアは半開き,等々いとまがない。


三島由紀夫は『山の音』とは梓巫女の引く弓の音だと言っている。山は山の神(女)のことだと分かると理解は容易だ。性不能になった老人の義父は、義理の娘のエロスの誘惑に感応して健康体の男に復帰するのが小説の外の物語になっている。


梓巫女、別名遊女で浮遊して梓弓を引いて神降臨させる。もうすっかり老人の体になったのが、山の音(若い女の美しさ)で回春する。このテーマは欧米では大歓迎される永遠の主題である。ピカソが少女と結婚するのとそう遠くない話だ。


息子は外に別の女性がいる。義父と義理の娘(嫁)が結合するのは自然と欧米では考える。多分欧米なら老妻と離婚し、義父と嫁が結婚する。めでたい話、ハッピーエンドなのだ。個人主義の強い中国でも共感できるのだろう。権威主義のモラルに反抗してエロスを優先させる川端康成は、文化英雄なのだろう。