続パスカルの葦笛のブログ

FMラジオやテレビやCDのクラシック音楽の放送批評に特化したブログです。

エリック・サティー事始(薩摩治郎八と関係があった)

薩摩治郎八(1901-1976)は1935年に、世界恐慌で実家が破産して財産整理のために日本に帰国することになった。主婦の友社、かつてのカザルス・ホールがあった所が実家の屋敷であったという。


久しぶりの帰国で、友人の音楽評論家増沢健美(1900-1981)は帰国中の薩摩治郎八を実家の屋敷に訪問した。増沢健美の伝記は今のところウィキペディアにはない。増沢は毎日音楽コンクールの創設者である。


雑談中、話がエリック・サティーのことになった。増沢健美は「エリック・サティーの楽譜は全部持っているんだ」ということになった。薩摩治郎八は「へえ。俺が金を出すからエリック・サティー演奏会をしよう」ということになった。これが日本におけるエリック・サティー事始めとなった。オール・エリック・サティー・プログラム。世界でも最初かも知れない。


実はエリック・サティー事始めは、とある女性声楽家のリサイタルに、エリック・サティーの作品を一曲取り上げたのが最初のようである。そういうわけで、ジャン・コクトー『エリック・サティー』(1931)をフランス語から翻訳して出版した坂口安吾(1906-1955)は、この令夫人を訪問して日本初演したサティーの作品を直接聞いている。


有名作曲家でなかったエリック・サティーにはレコードもなかっ時代だった。


1935年、東京で大々的に開催されたサテイー演奏会だが、サティー・マニアの坂口安吾は聞いたのであろうか。この頃、坂口安吾は女流作家の矢田津世子(1907-1944)と大恋愛中だったのでそんな暇が無かったのであろうか。(世間の噂では、文壇では二人は
お神酒徳利の言葉で形容されるほどで、野上弥生子と湯浅年子はレスビアンと噂されるほど仲が良かった。湯浅年子は京都の遊郭に生まれた身勝手な人で、左傾化していて共産党に入党して知人に共産党費を強要し、矢田津世子も強要された。協力して迷惑を被った。「共産党に協力しないのは人間じゃないよ」と。それでいながら野上弥生子には求めない。湯浅は人を見るというか、徹底的に差別の人だった。犠牲にしてもいい人、犠牲にしない人の区別があった。矢田津世子にしてみれば、「何で野上さんにはお金を要求しないの」。「あの人は投票で協力するのが精一杯。活動資金まで協力するのは真っ平という人。それに迷惑かけたくないし」「私には迷惑かけてもいいの」「そうね」。割り切れる人は強い人だ。)


坂口安吾と増沢健美は同じ新潟県人だった。それがエリック・サティーとどう関係があるのか関係がないのか。二人は日本における最大のエリック・サティー狂である。


ところで、エリック・サティー(1866-1925)と薩摩治郎八(1901-1976)とはどう関係があったのか。薩摩治郎八は1922年にロンドンからパリに移り住んだ。二人はともかく3年間の交流は可能であった。貧乏音楽家と裕福な資産家の交流、ラベルやストラヴィンスキー同様泡沫の音楽家エリック・サティーとのハードルは低かったのであろう。とはいえ、自腹で演奏会を開催した所に二人の交流の痕跡はあった。