続パスカルの葦笛のブログ

FMラジオやテレビやCDのクラシック音楽の放送批評に特化したブログです。

近衛版ベートーベン3番秋山和慶指揮大阪センチュリー交響楽団(3)

まず報告したいのは、メンゲルベルクと近衛秀麿の有名な第九フィナーレのテインパニのリタルランド(テンポを落とす)終結のことだ。メンゲルベルク(1940)と近衛秀麿(1968)の演奏で、どちらが先行かという問題がある。厄介なのは、メンゲルベルクのベートーベン・チクルス(1940)の録音は1968年以降に日本で公開された事実がある。時系列を素直に理解すれば、メンゲルベルクのレコードを聞いて近衛秀麿が影響を受けて録音したことは絶対に不可能である。


『エロイカ』第四楽章の演奏の中に二人の影響関係を示す所があって、近衛秀麿がチクルス(1940)に出席していたか、ドイツでラジオ放送で聞いて採譜したしか考えられないことになり、M>Kという影響関係があったことが判明した。


蛇足だが、ここにメニューインがリタルランド終結に参加して、世界で著名な三人が参加して古典的演奏の領域に入った感がある。古典ですから、誰でも真似出来る。私の予想だが高橋直史がやるような気がする。行って聞いて見たい。


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第四楽章は面白尽くしの演奏だ。近衛は天才・奇人・破天荒な人なのだな。誰が聞くでもなし、書斎で楽譜にペンを入れて暇をつぶす。伊藤若冲という画家が誰が買うでもなく、好きなように描くだけ描いて生活した。東京駅で近衛がいる。「どちらに」「金沢にカニを食いに行くんだ」6時間汽車に揺られて行くのも厭わない人だった。書道では禁じ手の墨のクラデーションまで取り入れて描く若冲のグループの人だった。


まずユニークさが出るのは、93小節で、空白のテインパニに上位にあるホルンの3つの8分音符を加筆して打たせている。
これなどはベートーベンの欠陥を修正するという理念に最も適合したものだ。


314小節はテインパニは空白で、管楽器は4分音符を一斉に演奏しているので、ベートーベンのミスと解せる。そこで近衛が4分音符を復活させたことは、最も標準楽譜の作成という理念に合致した箇所だ。


近衛偉い、となるところだが、そこで近衛はテインパニをトレモロにして逸脱に走るのだ。原画修正が芸術創造になってしまう。


384ー388小節が演奏の白眉かも知れない。
画面に見えない384小節のトランペットをffで強奏して画面の385小節になるのだが、近衛はテインパニの楽譜は無視して、ホルンの16分音符の三連音符をテインパニで打たせるのがユニークなところだ。387-388小節のホルンをテインパニで打たせて、トレモロを無視している。つまり早い連打よりもテンポは遅くなるのだが、16分音符の連打の方が印象深く感じられる。テンポが落ちる気だるさが何とも言えない快感になる。この発想を近衛は誰から学んだか。必ず先学という者がいるはずだ。これは解釈の最高峰と呼んでも差し支えない。
418-419小節も、ベートーベンの欠陥を修復しながら(木管パートをテインパニに打たせる)、他方ベートーベンの顔に泥を塗るから(2分音符を何故楽譜にない個人趣味でトレモロで打させるか)、近衛という人は面白い人だ。


431-432小節が凄い。テインパニの強打はあるべきで、ベートーベンはついうっかり書き忘れた箇所だと言えよう。それに気づいた人はメンゲルベルクだった。
ここでメンゲルベルク(1940)と近衛版(1968?)は同じなのだ。
近衛がメンゲルベルク(1940)の演奏を聞いて影響を受けた、というほかないわけである。それは第九についても同様となる。


近衛版とはメンゲルベルク版とも言えるわけで、日本の指揮者が好んで近衛版を使用するのは、無意識にメンゲルベルクで演奏しているわけである。メンゲルベルクの演奏の心地よさに酔うことができる。そこが最大の魅力なのだろう。


というわけで、近衛の第九(1968)もメンゲルベルクのレコード発売に先行して録音されてもおかしくないことになる。既に近衛はメンゲルベルクの演奏を知っていたのである。