続パスカルの葦笛のブログ

FMラジオやテレビやCDのクラシック音楽の放送批評に特化したブログです。

近衛秀麿と大町陽一郎、仕込みには金が掛かる話

近衛版ベートーベン交響曲は実はメンゲルベルク版ベートーベン交響曲であったことが判明した。メンゲルベルクのベートーベン交響曲全曲演奏会(1940)の演奏を反映していた。


この実演が日本でレコードで発売されたのは1973年であった。


出版社の音楽全集の刊行で、日本の指揮者と楽団が動員されて名曲の数々が録音された。多分外資のレコード会社は自分の首を絞める行為なので、自社の録音は拒否か使用料を高額にしたので、それなら改めて国内録音した方が安いということになった。


近衛秀麿(1898-1973)は読響を指揮して、「運命」「未完成」「田園」「第九」(1968)「新世界」を録音し、これがはからずも彼の芸術の集大成になった。


近衛秀麿は物理的にメンゲルベルクの「第九」(1940年演奏1973年発売)を聞いて「第九」(1968年)は録音できない事情があった。2つは似ていても、偶然の一致である。


実は近衛は1940年の実演を聞いていて、レコードではなく実演から影響を受けたとこになったのです。


ちなみに近衛は1938年に渡欧して1945年まで滞在した。この間欧米を往来したようである。枢軸国の日本とオランダは色々な便宜があり、1940年のメンゲルベルクのベートーベン・チクルスの見学は容易だったかも知れない。ローゼンシュトックがリヒアルト・シュトラウスの『トリスタンとイゾルデ』の手沢本を筆写したように、近衛はメンゲルベルクから自分の指揮者用楽譜を見せてもらって筆写した可能性がなくわないのない。それが基になって近衛版ベートーベン交響曲ができたのであろう。


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大町陽一郎(1931-2022)は1954年3月に芸大を卒業すると、ウィーンに留学し9月ウィーン国立音楽院に入学した。1955年8月、バイロイト音楽祭がありラジオ放送で中継された。クナッパーツブッシュが指揮してワーグナーの『さまよえるオランダ人』が演奏された。このラジオ放送を大町はテープレコーダーで録音した。そういう回想をしている。


テープレコーダーはソニーが初めて売り出したヒット商品だった。井深大の父はエンジニアで百科事典の写真や図で発電機を製作した人だった。当時ドイツでは磁気録音を実験していて鉄を使用して録音できる話を聞いていた。針金で録音ができるが引っ張りで切断するのが欠点であった。そこで井深は和紙なら引っ張りに強いことを発見して、和紙でテープをつくり鉄粉を付着した。見事成功すると、国会と裁判所が速記として採用してくれた。留学記念にテープレコーダーを貰ったという。


それ以来クナの『オランダ人』は50年間大町の絶対優位の音楽資料になった。やがてクナのライブ録音が放出された。その間大町はワーグナーの「オランダ人」を指揮する機会に恵まれなかった。というわけで大町は家宝の持ち腐れにしてしまった。ブラームスの弾いたレコードをお持ちですか、と尋ね人欄に投書したこともあった。古い演奏を知りたかった。


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他方、1940年に近衛秀麿はメンゲルベルクのベートーベン交響曲全曲演奏会に接する経験をした。近衛は9曲すべてを楽譜に記録した。後日自分の指揮する時の参考資料にするためだった。


この9曲の楽譜に、それから日々気づいた事を重ねて記録した。これが近衛版ベートーベン交響曲だった。


近衛はメンゲルベルクの記録は宝の持ち腐れになったが、再評価で蘇った。大町は宝の持ち腐れにしてしまった。いずれにしても二人は音楽の仕込みに巨大な金を掛けていたのだった。手間暇がかかっていた。熟成して芳醇な結果をもたらしたり、腐って放棄したりした。


計算の出来る人だったら近寄らない分野だ。無駄が生き、又大きな無駄の世界だった。