続パスカルの葦笛のブログ

FMラジオやテレビやCDのクラシック音楽の放送批評に特化したブログです。

晩年が始まる飯守泰次郎指揮東京シティー・フィルの『運命』

この人の晩年ほど魅力的な演奏を聞かせた人はなかった。長い長い沈滞期があって、突如活火山が噴火したのである。爆発は地方の田舎者で、洗練された常識人にできている東京っ子は似合わない。しかも超セレブリティの出自だから、本来はありえないのだ。


NHKFMの功績は、飯守泰次郎の前半期と後半期の区分けに成功したことだ。ベートーベンの交響曲全集2種が、図らずも前期後期の演奏を分けた。ベーレンタイター版全集が飯守泰次郎の前半生の総決算の意味を持ち、マルケビッチ版全集が晩年の演奏人生の始まりになったことを、演奏で提供したわけだ。飯守泰次郎の晩年(2011-2023)は今年死ぬまでの12年間である。


ベーレンライター版ベートーベン交響曲全集飯守泰次郎指揮東京シティー・フィル(2000年録音)飯守59歳。


マルケビッチ版ベートーベン交響曲全集飯守泰次郎指揮東京シティー・フィル(20011年録音)飯守70歳。


ここで不思議なのはマルケビッチ版は20年以上も前に出版されていて、昨今の出版事情で話題になって注目されたわけではないということだ。単なる印象で申し訳ないのだが、マルケビッチ版で演奏した後で、最近ベーレンライター版の新しい楽譜が出版されて、これは素晴らしい楽譜だと感激して、改めて全曲演奏したとばかり思っていた。事実は逆だった。


ベーレンライター版ベートーベン交響曲全集を完成させたのであるが、古いマルケビッチ版の方が価値があると思った。飯守泰次郎は古楽器奏法で演奏してみたものの、伝統的な保守主義が良いと転向表明したのだった。ロマン主義に復帰したのだった。


山田・飯守家は日本でも有数な保守反動の家系であった。そういう意味では保守の思想こそが正しく、革新は邪道であった。政治面ばかりか音楽面でもそれが言えたことになる。


そのいい例がベーレンタイター版の演奏だった。第一楽章268小節の演奏だった。
ベーレンタイター版のアダージオのカデンツでは、校訂者のデル・マーは3番目の音符に楽譜にない装飾音符を新楽譜では印刷し、飯守泰次郎もそう演奏させている。


これがベーレンタイター版のベートーベン交響曲全集の売り物でもあった。


この飯守泰次郎の『運命』であるが、東京シティー・フィルから十分古楽器奏法の音を出して演奏させている。あらゆる点で成功といえるのである。


しかし2000年から2011年に至ると、飯守泰次郎には心境の変化があった。今世に時めく古楽器奏法に疑問が出て来たのであった。古楽器奏法の思想をそのまま信じていいものか。ベルリン・フィルでは、常任指揮者のサイモン・ラトルはベーレンタイター版の使用を支持したが、オーケストラはビユローやフルトベングラーが使用したブライドコップフ版を支持して、両者の対立は物別れとなった。


山田・飯守家の伝統的な保守思想からすると、ルソーの危険思想に相当した。音楽学者デル・マーなどはルソーみたいな革命思想であった。政治思想ならエドモンド・バークの保守思想でなければならなかった。古いものはそれだけで良い。この世に存在するものにしか価値はない。信用できるのは古い過去に演奏されてきた楽譜だけだ。楽譜にない装飾音符、
古い時代にはこういう楽器だったろうという古楽器復元、過去に演奏されたであろう古楽器奏法、皆根拠は無い。飯守泰次郎に、政治思想の保守思想と同じものが音楽思想の保守思想として表われた。


過去の伝統的な演奏を熟慮したマルケビッチ版ベートーベン交響曲の楽譜への再評価となった。こちらの方が正しいのではないか。その第一歩としてマルケビッチ版ベートーベン交響曲全集の録音となったのである。


こうして飯守泰次郎の晩年(2011-2023)が始まった。同じ『運命』でみてみると、第四楽章のワインガルトナーがトロンボーンに修正を加えた所はマルケビッチが採用しなたったことで演奏されない。
同じ音楽の保守陣営でも、マルケビッチはこの修正に賛成しないわけだ。というわけで飯守泰次郎も演奏していない。


同じ理由で128小節のテインパニの空白をトスカニーニは埋めているが、マルケビッチは空白にしている。


205小節のcresc.記号は、飯守泰次郎はffで演奏しているが、マルケビッチの指定かどうかは不明である。


マルケビッチ版ベートーベン交響曲全集の使用は、飯守泰次郎を音楽の保守に向かわせたのであるが、マルケヴィッチを尊重することで、色々な指揮者の個性を反映させる点では手枷足枷になっている。もっと大胆な飯守泰次郎がいるわけで、そこへ行く飯守泰次郎の過度期だったのかなとも思わせるのである。


奇しくも飯守泰次郎は2023・8・15に死んだ。1945・8・15の午前0時、奉天発釜山着の突貫列車が出発した。甘粕正彦は満州建国に尽力したエリートを集結したのだったが、志半ばで挫折した。お礼返しではないが、選ばれしエリートたちを本国に送り返し、戦後日本の再建に尽力されたしと、各駅停車でエリート一家を乗せながら釜山に到着し、用意された船で博多港まで送った。船から降りると、各人は「戦争復興に尽力しましょう」を合言葉に日本各地に散らばって行った。ここに飯守泰次郎一家がいた。これを発案した甘粕正彦は作家高橋源一郎の親戚で、「甘粕叔父さんはいい人」と家族で言い合ったという。奇縁ですね。