続パスカルの葦笛のブログ

FMラジオやテレビやCDのクラシック音楽の放送批評に特化したブログです。

人生という作品を見事に生き抜いた尾崎翠

女流作家の尾崎翠ほど自分の人生を見事に生き抜いた人は稀である。成功と栄光を勝ち抜いた人生を得た人は、勝ち組といわれるが、そんな人だった白洲正子は86歳の高齢で、「早く死にたい」と漏らしていた。勝ち組の末路はそんなものだろう。10年前は86歳は天寿だが、現在は96歳になって、高度医療の成果が出ている。


長谷川如是閑は80歳を超えると毎日生きるのが大仕事だと述懐しているが、フランスの思想家アカンベンは「生きた死」だと呼んでいる。80も90も死者が生きているだけだという。露骨だが正直な意見なのだろう。


尾崎翠の晩年はむしろ悲劇の範疇に属するものだが、それに狼狽するでもなく、東洋的無を感じさせる静寂なものだった。プロの作家を諦めて故郷鳥取に帰ると、市井の人として静寂の中に貧しく生きた。清く貧しく生きることは美しい、とは尾崎翠の人生のことだ。傑作
『第七官界彷徨』を書き残したことより、美しい人生という作品を残したことの方が貴い。


しかしその人生は決して平たんなものではなかった。当時としては高等女学校を卒業し教員になったエリートだった。唯一の心残りは、女性でも大学に進学出来なかったことだ。多分自分が小説家になれないのは大学教育がないことだと劣等感を持った。


当時の日本では、環境に恵まれなかった男女は師範学校を出て教員になり貯金をして大学に入学する人がかなりいた。進学率の低かった日本では、大学卒業という資格は有力であった。妻帯し子持ちの大学生という者もいた。尾崎翠も教員をしながら給与を貯金した組なのだろう。24歳でようやく念願の日本女子大学に入学した。しかし大学教育は外で見ているほどの内容のものではなく失望した。同級生に網野菊・湯浅芳子・村山リウという花の秀才組がいたが、取るに足りなかった。学生が小説を雑誌に発表したことで大学から叱責された。プロの小説家になりたかった尾崎はあっさりと大学を中退した。大学の学歴がなくて小説家になれないという思い込みを恥じた。


鳥取に帰って小説家を目指したが、田舎のぬるま湯より、東京の刺激で発奮することに気づく。上京と帰省を繰り返す弱い人間でもあった。箱入り娘だった松下文子は尾崎翠と共に大学中退した。初めて自由意志で決断した。自分が成りたいという意志を実行する尾崎の勇気に憧れた。自分にはなれないが、尾崎翠の自己実現を支援することが、せめての思いだった。どうも松下文子は下落合の大工の二階家の下宿部屋を年間で借り上げていたらしい。尾崎翠が上京できたのも、それがあったのだ。(尾崎を小説家にするために部屋代を出した。)


尾崎翠はプロの小説家になりたいと上京し、東京で挫折した。25歳から35歳まで、尾崎翠は上京と帰省の反復を繰り返しながら、小説を執筆した。鎮痛剤『ミグレニン』を常用して執筆に励んだ。


「時々、かつて尾崎さんが借りていた家の前を通るのだが、朽ちかけた、物干しのある部屋で、尾崎さんは私よりも古く落合に住んでいて、桐や栗や桃などの風景に愛撫されながら、『第七官界彷徨』という実に素晴らしい小説を書いた。文壇と云うものに孤独であり、遅筆で病身なのに、この『第七官界彷徨』と云う作品には、どのような女流作家も及びつかない巧者なものがあった。私は落合川に架したみなかばしと云うのを渡って、私や尾崎さんの住んでいた小区へ来ると、この地味な作家を憶い出すのだ。」(林芙美子)


実は林芙美子より七才年長なのだが、その頃の尾崎翠とよく交流していた。夏を長野の戸隠で過ごして帰って来ると、尾崎はこの部屋でコツコツと小説を書いていた。


「尾崎さんは体を悪くして困っていた。ミグレニンの小さい瓶を二日であけてしまうので、その作用なのか、夜になるとトンボが沢山飛んで行っているようだと云っていた。雁が家の中へ込入って来るようだと、夜更けまで淋しがって、私を離さなかった。
 眼の下の草原には随分草がほうけてよく虫が鳴いた。「随分虫が鳴くわねえ」と云うと、「貴女も少し頭が変よ、あれはラジオよ」と云ったりした。私も空を見ていると本当にトンボが飛んで来そうに思えた。ヴェランダに愉しみに植えていた幾本かの朝顔の蔓もきり取ってしまってあった。そんな状態で体がつかれていたのか、尾崎さんはもう秋になろうとしている頃、国から出て来られたお父さんと鳥取に帰って行かれた。」(同)


林芙美子の筆だが、薬物中毒の禁断症状が文学形式で報告された最初ではなかろうか。トンボの飛来や雁の飛来、虫の鳴き声がラジオの音、朝顔の花の切断の奇行が目立った。もうこれが限界か、と父を呼び出して尾崎翠は都落ちをするのだった。帰り際「この草原に家が建ったら嫌だなあ」と言い残して帰省した。昭和8年の最後の帰省だった。すぐ安普請の小宅が林立したと林芙美子が書いているが、その風景は尾崎翠は遂に見ることはなかった。


こうして尾崎翠はオーバードーズ(薬物の過剰摂取)から逃れた。文学の非情な要求から切断され、文学を放棄して人生の安息がもたらされた。人はそう容易に薬害から決別できないが、幸運にも文学から離れることで薬から決別出来た。文学から逃げた人だが、文学に殺されることもなかった。命あっての物種と、元気な尾崎翠の姿を見て思うのが家族だろう。


昭和26年、突然原因不明の病魔が襲って、半年の闘病をした。今ではよく知られたフラッシュバック(揺り戻し)であった。これも今だからフラッシュバックだと判明するが、当時は原因不明の病であった。昭和8年に薬のオーバードーズを止めてから、18年後の発病だった。薬害は恐ろしい。尾崎翠は世界最初のフラッシュバックの記録者となった。(この点でも尾崎翠の人生は有意義である。)


二度再評価の波が及んだが、二度と筆は取らなかった。昭和44年6月、高血圧と老衰で74歳の生涯を終えた。人は40年の無為な時を浪費したというかも知れないが、浅学非才な身からすれば40年の余生は人生の果実ではなかったか。平穏な日々は誰でもが送れるとは限らない。


<余談>
伊集院光、ノイローゼになる原因になった立川談志。
20歳の自分は落語が上手かった。師匠が談志のテープを貸してくれた。ここが違う、あすこが違う。うま過ぎる。20歳の談志と20歳の自分の芸の差を痛感した。自分がいたたまれない。芸に悩み始めた。あすこに飛べない自分が許せなかった。通院して薬を貰ったが、心が折れた。


落語家を捨てた。それが正解だった。別所で生きることにした。博覧強記と駄弁で生きることにして成功した。