続パスカルの葦笛のブログ

FMラジオやテレビやCDのクラシック音楽の放送批評に特化したブログです。

シューリヒト指揮シュツットガルト放送響のモーツアルト35番1956年映像

カール・シューリヒトの指揮した映像は意外に無いのだろう。モーツアルトの交響曲35番フィナーレ楽章のシューリヒトの映像が見えるのが貴重だ。ストラビンスキーの『火の鳥』全曲の映像と交換したいところだが、敗戦後まもない物資不足のドイツで、是が非でも巨匠の姿を残したい放送局の別の意味があった。


ドイツのヘンスラー・クラシックというレーベルが、音楽的ポートレイトと合わせてストラビンスキーのバレー組曲『火の鳥」全曲とモーツアルト交響曲35番フィナーレの映像を発掘して紹介している。


ドイツにおけるストラビンスキーの紹介では、シューリヒトという指揮者は先駆者とされていて、ウィスバーデンという温泉都市の地方都市のオーケストラで盛んにストラビンスキーの音楽を取り上げていて、無視できないものがあった。ストラビンスキー本人もやって来て自作自演をやった。クレンペラーなどもベルリンのクロール・オペラでストラビンスキーを取り上げていた。戦後ではストラビンスキーなどは取り上げられなくなったが、『ペトルーシュカ』などをイタリアの放送オーケストラで演奏した録音が残っている。ドイツにおけるストラビンスキーの演奏の伝統があり、そこではシューリヒトの意義は無視出来ないものがあったらしい。


ストラビンスキーの演奏といえば、長らく住んでいたフランスでの演奏の伝統があり、アンセルメ・マルケビッチ・ブーレーズなどの指揮者の仕事がある。戦後ストラビンスキーといえばマルケビッチの指揮が権威とされ、何処へ呼ばれても『春の祭典』を指揮させられ、つくづく嫌になるとこぼしていた。それで好きな曲目を指揮させてくれる日本フィルが気に入って、マルケビッチは来日しては欧米では指揮させてくれない曲を日本フィルと録音した。泰西名画的な名曲をマルケビッチは指揮出来なかった。その録音が今ではマルケビッチの貴重な録音となってフランスの現役盤になっている。むしろ日本では廃盤で入手困難になっている。


そして戦後はアメリカに移住して、すっかりアメリカの作曲家になったストラビンスキーだったので、自国の作曲家としてアメリカの指揮者から頻繁に取り上げられた。


そういうストラビンスキーの演奏史があるのだが、そこであまり注目されないのがドイツにおけるストラビンスキーの演奏だった。クレンペラーやシューリヒトやフェルデイナント・ライトナーなどが盛んにストラビンスキーの音楽を取り上げた。ナチス時代に禁止され、戦後を迎えるわけであった。そこでシュツットガルト放送局が、ドイツにおけるストラビンスキー普及に重要な役割をしたシューリヒト指揮のストラビンスキーを映像で残そうということになり、『火の鳥』全曲を撮った。


ストラビンスキーは戦後来日してN響で自作自演をしているのであるが、ストラビンスキー自身はコントラバスを左に設置したり古いオーケストラ配置にこだわっていて、必ずしもアメリカのオーケストラが演奏するストラビンスキーがベストではないことが分かる。ドイツのストラビンスキー演奏はストラビンスキー自身の演奏に直結しているわけである。古い音楽の中から出てくるストラビンスキーの音楽の一部古さが感じられるわけである。シューリヒトの指揮も、マーラーやリヒアルト・シュトラウスの演奏から引き出られる指揮で、野暮で融通の利かない土臭い演奏で、敢えて聞くようなものではないのだが、ドイツ人にとっては有意義なのだ。


何で今さらシューリヒトでストラビンスキーの演目なのか、という不満が出るのは当然なのだ。ドイツにおけるストラビンスキー演奏史ではシューリヒトの指揮を記録するというのは歴史的価値があった。どうしてもまだ生きているシューリヒト翁でストラビンスキーの演奏を記録しておくという価値があったわけだ。


モーツアルトの交響曲の断片でシューリヒトの指揮ぶりに満足しなければならないのだが、実は全曲は同じヘンスラー・クラシックのレーベルで発掘されCDが発売されている。1956・7・4のルードビッヒブルグ音楽祭の記録となっている。


戦前の日本でもシューリヒトのレコードは販売されていたようである。


日本にあるレコードは、何れもシューリヒトの長所を伝えない。海外にある主要なレコードは、
 ベートーベン 交響曲第三番変ホ長調(英雄)作品55 ベルリン・フィルハーモニック管弦楽団(P)
 ブルックナー 交響曲第七番ホ長調 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(P)
 リヒアルト・シュトラウス 家庭交響曲 スカラ座管弦楽団(G)
等で、この中ではブルックナーの「交響曲」は輝きのある演奏ではないが、ブルックナーらしき雰囲気は良く出し得ている。(大木正興『名演奏家事典』)


これを見てみると大木正興は『英雄』やブルックナーを実際に聞いているようである。この頃大木正興はSPレコードの国内最大のコレクターで、外国盤の収集もかなりしていたようである。シューリヒトの外国盤というのは、実はウィスバーデンの指揮者としての活動で稼いだ金を貯金して、貯まると自費でベルリン・フィルを雇って私費出版した代物であることが分かっている。戦前のベルリン・フィルはそういうサービスがあって、近衛秀麿や貴志康一のレコードは皆それだった。自費出版とはいえ、注文すると日本まで届けてくれるサービスがあったようである。戦前のシューリヒトの大曲のレコードは自費出版物で、そうしても名声は得られなかった。ベームの練習など誰も聞く人はいなく、音楽学生は皆シューリヒトの練習を聞きに行ったものだというチエリビダッケの辛辣な批評がある。ナチス御用と反ナチの冷遇というものもあった。


余談だが市川の大木邸は作家中野孝次(1925-2004)の父親の棟梁が建てた邸宅で、一高生の大木正興(1924-1983)がメンゲルベルクの『悲愴』を聞いている時中野は窓の下でカンナの刃を研いでいた。「あれは何ですか」と女中に問うと、「メンゲルベルクの『悲愴』だそうですよ。お坊ちゃまが大工さんクラシック好きなんだと感心してたわ」と女中が大木正興に尋ねてくれた。「おまえ大木のお坊ちゃんに何かしたか」と父親が尋ねた。当時使用人は家族と口を聞くのはタブーだった。旧制中学に進学したかったが、大工に学問は不要と高等小学校を卒業した中野は不本意で大工見習をしていた。この出会いで中野は「俺も一高に行く」と決意した。検定で進学するのだった。大木は生きる希望を中野孝次に与えてくれた。


「この人との一期一会がなかったら、社会を恨み犯罪者となって消えていたろう。よもや東大を卒業するとは夢にも思わなかった」と回想している。自分の前に何時も大木正興がいて立っていた。大木を先に立つ神としてあの人に成ろうとがんばった。東大助教授だった大木正興を見て、恥を忍んで東大の助手にして下さいと懇願したこともあった。ようやく理想の神と同僚になれる時が来た。主任教授の娘で私生児を妊娠した女と結婚した軽蔑すべき助教授が侮蔑した視線で中野を見下た。人生最大の屈辱であった。挫折して会社員になり、私大の講師となった。大木は助教授で東大を定年退官したが、中野孝次は国学院大学教授になっていた。で、ようやく勝った気がした。