続パスカルの葦笛のブログ

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追悼小沢征爾、国民から広く深く愛された指揮者

1995年小沢征爾60歳の還暦記念に、当時日テレの人気番組『電波少年』で松村邦洋は赤い燕尾服を小沢征爾に送った。律儀にも小沢征爾は赤い燕尾服を着用した写真を番組に送ってきた。世界の小沢は松村邦洋ですら知っていた。こういう人は二度と現れない。


2024年2月9日の7時のNHKテレビで、2月6日指揮者の小沢征爾が自宅で逝去され享年88歳と伝えられた。この人ほど国民から広く深く愛された指揮者は今後出まいと思われる。


一言で言えばお笑い草であるが、固いクラシックの小沢征爾が松ちゃんの番組に軽く乗るところに小沢の魅力があった。「何て心暖かい人なのだろうか」と心に沁みた次第だ。大衆のバラエティー番組がクラシックの指揮者小沢征爾の名前を知るわけがない。お門違いである。しかし大衆国民ですら指揮者小沢征爾の名前を知っていることだった。こういう現象はもう二度とあるまい。お笑い番組ですら小沢征爾の名前は広く知れ渡っていたのである。これは稀有なことだ。


広く知れ渡るということは、他方で広く浅くとなるが、それでいて小沢の芸術は深みがあったのだった。広く知られていながら、深い芸術性があったということは二律背反である。深ければ人に知られないのが世の通性であった。この二律背反を包摂した芸術家が小沢征爾であった。


この人には右顔と左顔で二面性があった。右顔は保守主義で左顔は進歩主義である。若き小沢征爾は斎藤秀雄から最新の技術を教えられて現代音楽のスペシャリストになっていった。ストラビンスキーやメシアンの音楽を何不自由なく指揮でき、その道の権威となった。そういう指揮者は伝統的な音楽が不得手なのだが、ベートーベンやブラームスの演奏が出来た。ブルックナーの2番や7番も権威筋になった。つまり両局面が出来た稀有な人だったのだ。


小沢征爾の1曲を選べば、1967年の日本フィルのベルリオーズ『幻想交響曲』であろう。小沢征爾が若干32歳という青年の演奏であるが、既に大天才の兆しを見せているからである。やがて何度も右に左に紆余曲折を経過した人生をたどるわけだが、彼の人生縮図はここに出し切っているのである。


『幻想交響曲』、5楽章「魔女の祝日の夜の夢」で、冒頭のテインパニをpの3つが楽譜だが、f・mf・pに振り分けて演奏させているのは若き指揮者の才気だ。


続く6小節の金管で小沢征爾はジェスジャーで階段を降りる様子を指揮しているのは如何にもの才気を示した。ここが見ものになっている。
若き小沢征爾には、自分には何でも出来るというごう慢さが無くはないのだろう。太々しいほどの才気がほとばしっている。


次の11小節のホルンが凄い。ここにはホルンにグリッサンドの指定がないのだが、小沢は敢えてグリッサンドで演奏させている。
ここで小沢征爾はグリッサンドで演奏させている。数年後のトロント交響楽団でのレコード録音では素通りしているのだ。この臨機応変は巨匠の才覚である。


もう単なる若者の才気ではないのである。私はボストン交響楽団でのシャルル・ミユンシュの影響が小沢征爾に決定的な影響を与えたと思う。前衛音楽の小沢征爾がクラシックの正統派に転換したのがブラームスの1番の演奏で、ミュンシュへの帰依を表明したのだ。以後小沢のブラ1番は基本が変わっていない。むしろ変える必要がなかった。


余談だが、ミュンシュはゲバントハウス管弦楽団のコンマスで、常任指揮者がフルトヴェングラーであった。ミユンシュの指揮はゲバントハウス時代のフルトヴェングラーの指揮を継承しているわけで、ミュンシュを通して小沢征爾は幾分かはフルトヴェングラーを継承しているのではないかと思っている。まさにドイツ正統派の音楽の嫡子でもあったことは忘れてはなるまい。


さらに、永六輔の逸話を紹介したい。永六輔が地下鉄に乗って本を読むと、向こうでホームレスが永六輔を見ている。嫌だな、関わりたくないと思っている。ホームレスがなおも永六輔を見ている。腹が立って永六輔がホームレスを睨みつけた。「あっ、世界のオザワ」と永六輔は唸った。知り合いの永六輔に気がついたので、小沢征爾はニコニコ顔で永六輔を見ていたのだ。ホームレスと間違えられた小沢征爾。この頃は白髪頭でボサボサ頭をしていたのだ。